2023年12月24日 クリスマス礼拝説教「神の時が満ちた」 東野尚志牧師

イザヤ書 第9章1~6節
ガラテヤの信徒への手紙 第4章4~7節

 主の年2023年のクリスマスを迎えました。主イエスのご降誕を記念し、喜び祝うために、私たちにとって、何よりもふさわしいあり方は、主の前に礼拝をささげることです。ちまたには、さまざまなクリスマスの祝い方があります。クリスマスをだしにして、ただ自分たちが喜び楽しむだけのクリスマスが溢れています。けれども、クリスマスの本当の意味を知らされた者たちは、クリスマスの最もふさわしい祝い方として、何よりもまず、神さまの前に集って、私たちのためにこの地上に来てくださった御子イエスに礼拝をささげます。この朝、主イエスのご降誕を喜び祝うために、礼拝堂に集われた皆さまお一人びとり、またズームで礼拝に連なっておられる方たちお一人びとりの上に、心より、クリスマスの祝福をお祈りいたします。

 福音書の降誕物語の中には、最初のクリスマスの出来事が、印象深く描かれています。福音書記者マタイは記します。東の国で、新しい王の誕生を告げる星を見た博士たちは、はるばるエルサレムのヘロデの王宮まで訪ねて来て言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2章2節)。ヘロデは、心の中では、新しい王の誕生を歓迎していませんでしたけれども、祭司長たちや律法学者たちを集めて、メシアが生まれる場所を問いただします。すると、学者たちは古い預言の言葉を示して、メシアはユダヤのベツレヘムで生まれることになっていると告げます。ベツレヘムに着いて、幼子のいる場所を探し当て博士たちは何をしたでしょうか。マタイは次のように記しています。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(2章11節)。幼子イエスを礼拝したのです。
 あるいはまた、福音書記者ルカは、主の天使が羊飼いたちに現れた夜の様子を書き記しました。天使は羊飼いたちに告げて言いました。「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2章10~11節)。天使のお告げを受けて、ダビデの町ベツレヘムへと旅立った羊飼いたちは、マリアとヨセフ、また飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を探し当てました。こう書かれています。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の告げたとおりだったので、神を崇め、賛美しながら帰って行った」(2章20節)。
 異教徒である東の国の博士たちも、また野原で羊の群れの番をしていた羊飼いたちも、不思議な仕方で、救い主の誕生を知らされたとき、御子がお生まれになったベツレヘムまで旅をしました。そして、幼子イエスの前にひれ伏して拝み、神を崇めたのです。

 私たちも、この朝、クリスマスを記念して、主なるキリストを礼拝し、神に栄光を帰するために、ここに集められています。クリスマスをだしにして、私たちが楽しもうというのではありません。神さまは、私たちを救うために、大切な独り子である主イエスをこの地上に送ってくださいました。軍馬に乗って、敵を蹴散らすような勇ましく力強い救い主を送ってくださったのではありません。小さく無力な幼子の姿で、救い主はこの地上に来られました。新たな王の誕生を快く思わないヘロデが、その気になればすぐにひねり潰してしまえるようなか弱い存在として、またこの世の生活に忙しく過ごしている私たちが、簡単に無視してしまえるような小さな存在として、この世に来られました。しかし、私たちも、「この方こそ主メシアである」というお告げを聞きました。この方こそが、私たちを罪と死の支配から救い出してくださいます。愛と真実をもって、私たちを確かな平和の道へと導いてくださいます。
 クリスマスの夜、天使と天の軍勢が一緒になって歌いました。「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2章11節)。「あれ」というと、願望や希望を言い表しているように聞こえます。しかし、実際には動詞は用いられていません。しかも、対句のような表現になっています。つまり、天におられる神さまに、真実に栄光を帰するとき、地上において、主を崇める者たちの間に真の平和が実現する、ということではないでしょうか。なぜ、この地上に、平和が実現しないのかと言えば、誰もが地上で自分の栄光を求めるからです。造り主である神さまの前に、造られた者である私たちは皆、平等であるはずです。それなのに、本来、ただ神さまだけに帰すべき栄光を、私たちが自分のために求めるとき、そこに争いが起こります。他者と比べることが始まるからです。ひとよりも偉くなり、ひとよりもお金を稼いで、ひとから重んじられる存在になりたい。誰だって、ひとから褒められたり、頼りにされたりするのは心地よいことです。ひとから無視されたり、軽んじられたりすると悲しいし腹が立ちます。ヘブライ語の「栄光」という言葉は、もともと「重い」という意味から来ていると言われます。自分が他人から重んじられることを求めるのは、自分に栄光を求めることだと言ってもよいのです。本来は、神さまだけに帰すべき栄光を、私たちが自分のために求めてしまう。そこに、罪の原点があると言ってよいかもしれません。
 だからこそ、神の独り子である主イエスは、誰からも重んじられない、小さく無力で、簡単に無視されてしまうような幼子の姿でこの世に来られたのではないでしょうか。神の独り子が、ご自身を小さく、低くされたことによって、私たちの罪の姿が顕わにされたのです。そして、その罪をすべて、神の御子である主イエスが引き受けてくださいました。私たちの罪の重荷をすべて背負って、ひとからは嘲られ、ののしられながら、十字架への道を歩まれたのです。

 二千年前、神の独り子がこの地上に生まれてくださったことは、人類の歴史を区切るような文字通り画期的な出来事でした。人類の歴史は、キリスト以前、Before Christ、BC、すなわち紀元前と、主の年、anno Domini、AD、すなわち紀元後に区切られることになりました。どうして、キリストの降誕は、二千年前のクリスマスの時であったのでしょうか。使徒パウロは、「時が満ちた」という言い方を用いました。先ほど朗読したガラテヤの信徒への手紙第4章4節の言葉です。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」。
 「時が満ちる」という言い方は、聖書の中によく出てきます。神さまがお定めになった、最もよい時が来た、まさにその時、ということです。確かに、二千年前のクリスマスは、いろいろな意味でふさわしい時であったと言えるかもしれません。ローマ帝国の支配下にあって、ユダヤの人たちは、約束された救い主、メシア、キリストが来られるのを待ち望んでいました。救い主を求める心が研ぎ澄まされていたのです。あるいは、ローマの支配が広く行き渡って、すべての道はローマに通じるとも言われた時代です。ギリシア語が共通語として用いられており、福音を広く伝えていくのにちょうどよい条件が整っていたと言えるかもしれません。けれども、間違えてはならないと思います。そのような人間の側の条件が整ったから、時が満ちた、ということではありません。ただ神が、全く自由に、この時をお定めになったのです。神の恵みの時が満ちた、ということです。
 「時が満ちる」というときの「満ちる」という言葉は、充満する、満ち満ちるという意味の言葉です。また成就するという意味でも用いられます。面白いところでは「満期になる」という意味でも用いられるようです。保険の契約や定期預金が満期になるという意味です。保険にしても預金にしても、先立って計画があり、契約がなされていたことが前提になります。つまり、決して、偶然や思いつきで、たまたまこの時だったというのではなくて、神さまのご計画に基づいて、契約が成就される時が来た、ということです。神さまの計画が実現される時が来たのです。
 救いの御業は、いつでも、神さまの御心の中で備えられます。私たちが洗礼を受けるということについても同じです。私たちの側の条件が整い、私たちの準備が整ったら洗礼を受けられる、ということではありません。神がお定めになった時が満ちるのです。それは私たちにとっては、思いがけない時であるかもしれません。まだ信仰の学びも準備の心構えも充分できていないかも知れません。けれども、大事なのは、私たちの時ではなく、神の時が満ちることなのです。

 時が満ちて、神は御子を「女から」生まれさせられた、とあります。二千年前、ユダヤのベツレヘムで、しかも、家畜小屋の中で、神の御子はお生れになりました。御子イエスは、おとめマリアを母としてお生れになりました。それは、神から遣わされた御子が、まさしく、現実の人間として、私たちと同じ生身の人間としてお生れになったことを意味しています。神さまは、私たち人間を救うために、御子を、私たちと同じ姿で遣わされたのです。私たちの罪を背負い、私たちの身代わりになるためには、私たちと同じところに立つ必要があったからです。神の独り子である主イエスが、私たちと同じ者になってくださったのです。
 その私たち、生身の人間の立っている場所を、さらに明確に示しているのが、「律法の下に生まれた者として」という言葉です。確かに、御子イエスは、律法を持つ民であるユダヤ人の一人としてお生れになりました。選ばれた神の民を立て直すために、神の民の中にお生れになったのです。律法の下にある者たちを救い出すために、御子は、律法の下にお生れになりました。それは、律法の支配下ということであり、律法によって縛られ、断罪され、死に定められている人間の一人ということです。確かに、律法そのものは善いもの、聖なるものであり、神の御心を告げる神の言葉です。けれども、罪の支配下にあるとき、律法は、私たちの罪を暴き、断罪し、死を宣告するものとなりました。
 しかし、そうは言っても、律法はユダヤ人のものであって、私たちとは関係ないと思われるかもしれません。確かに、律法は神の民であるユダヤ人に与えられた掟です。神の民が、恵みに答えて生きるための生き方を指し示す命の言葉でした。ところが、その命の言葉は、罪が働いているところでは、人間を縛りつけ不自由にする戒律になってしまいます。戒めの言葉だけが一人歩きをして、人間を縛るのです。その意味では、ここでユダヤ人だけのことが言われているのではないかもしれません。ユダヤ人だけではなくて、私たちは皆、さまざまな法や掟の下に支配されて、不自由な生き方を強いられているからです。この世には、私たちを縛りつけるさまざまな悪しき力が働いている、そう言ってよいかもしれません。パウロは、それを、「この世のもろもろの霊力」と呼んでいます。先ほどお読みした箇所のすぐ前のところ、ガラテヤ書第4章の3節にこうあります。「同様に、私たちも未成年であったときには、この世のもろもろの霊力に奴隷として仕えていました」。

 私の尊敬するある先輩牧師、もうずいぶん前に天に召された先生ですけれど、その先生が、ガラテヤ書のこの箇所を説かれたとき、自分には自由がないという嘆きを率直に口にされました。長い間、信仰生活を過ごしてきて、つくづく思うのは、私には自由がないという嘆きである、と言われたのです。私はそれを聞いたとき、びっくりしました。お忙しいから仕方ないのかなとも思いました。でもそうではありません。忙しすぎて自由時間がない、という意味ではない。さまざまな煩わしいことが多くて、自分のしたいことができない、ということでもない。のびのびと暮らしている人たちを見て、羨ましいと思うのでもない。ガラテヤ書4章3節の言葉を用いて言えば、自分の心が、いつも何かに、この世の霊力に縛られているというやりきれなさを感じる、と言われたのです。しかも、年を経るに従って、そういうことをますます強く感じるようになった、と言われました。
 私が初めてお会いしたとき、この先生は、60代の初めでした。私も、同じ年代を迎えていることに愕然とします。60代になると、少し先が見えてくるところがあります。あと10年は元気に働けるかな。長くても20年は無理だろう。そんなふうに考え始めます。肉体的にも年齢を重ねて、老いを実感する。枯れてくるというのが分かる。でも、若い頃には、罪の力に振り回されて不自由であったけれど、年を重ねて、少しずつ枯れた境地を味わいながら、精神の自由を獲得した、というのではありません。むしろ、ますます、この世の霊力に縛られた不自由を嘆いている、と言われたのです。もちろん、神の約束を受けています。自分の側にその資格があるかないかは一切問われないままで、救いの約束を受けたのです。そのような信仰者に約束された救いの望みを確かに信じています。けれども、なお、この世のさまざまな霊力に縛られて、心の奥底で自由にされていない嘆きを覚える、と言われたのです。

 恐らくそれは、伝道者パウロ自身の嘆きでもあったのだと思います。ローマの信徒への手紙第7章の後半のところで、パウロはうめくように告白しています。「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです」(ローマ7章15節)。「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています」(19節)。「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」(22~24節)。自分が心に望むことと、自分がしてしまうこととの間に分裂が生じているのです。こうしたいと思うことができない。してはならないと思いつつしてしまう。私たちが本当に自由な存在であるならば、自分がしたいと思うことをできるはずです。したくないと思えばしないで済ませられるはずです。しかし、私たちは自由ではないのです。罪の法則のとりこになって、罪の力に支配されているのです。しかも、罪が働くとき、本来は、良きものであるはずの神の掟が、私たちを縛りつけ、不自由にするのです。
 パウロはそれを、「この世のもろもろの霊力」と呼びました。霊とか悪霊などという言い方をすると、非科学的だと言って、眉をひそめる人がいるかもしれません。けれども、私たちは、この世で生きて行くときに、さまざまな価値観や世界観によって、否応なく影響を受け、支配されているのだと思います。学校においても、社会においても、競争という原理が支配しています。人よりも優れた成績を上げなければならない。人よりも優れた業績を上げなければならない。そういう原理が、私たちをどれだけ不自由にしているでしょうか。あるいは、学校や会社、あるいは、国家という集団が、ある特定の価値観をもって、そこに属している者たちを縛ろうとします。慣習という目に見えない力が、私たちを抑圧します。その中では、自由に自分の信念や信仰を公にすることができずに、その集団の価値観、規律、法、あるいは慣習に従わなければならなくなる。その意味で、会社も国家も、そこに属する者たちに忠誠心を求めます。
 無宗教である、ということが、いつも中立的な判断を約束するわけではありません。特定の宗教を信じていなくても、この世の秩序の中で生きている以上は、さまざまな価値観の支配を受けています。今も世界の各地で、争いが絶えません。民族や国家が、それぞれの価値観を絶対化して、頑なになるとき、相手の価値観や信念を否定し、相手を滅ぼそうとします。それぞれの正義、それぞれの言い分を振りかざし、それぞれの忠誠心がぶつかり合って、互いに譲り合うことのない争いを引き起こしてしまうのです。大きくは国家や民族の間で、そして身近なところでは、隣り人との間で、私たちは、怒りや憎しみから自由になることができません。自分の名誉、自分の利益にこだわる思い、自分の栄光を求める罪が、私たちを頑なにし、不自由にするのです。

 そのようにして、さまざまな力に支配され、振り回されている私たちを本当に自由にするために、神は、その御子を、もろもろの霊力や掟が力を奮っているこの世に遣わしてくださいました。パウロは、まさに、クリスマスの秘義、その意味と目的をはっきりと指し示すようにして歌います。「それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした」(ガラテヤ4章5節)。神は、御子イエスによって、私たちを律法の支配から贖い出し、世を支配するもろもろの霊力から救い出して、神の子にしようとしておられるのです。そのために、御子を、私たちと同じ人間の一人として、律法とさまざまな霊力が支配するこの世にお遣わしになったのです。御子イエスは、この世のもろもろの霊の力の破壊的な力をすべてその身に引き受けて、十字架にかけられ殺されました。それはまさに、私たちの身代わりとしての犠牲の死です。神の御子は、さまざまな法や掟をもって、完全な忠誠心を求めるこの世のもろもろの霊力に支配された私たちを解き放つために、十字架の上に犠牲になられたのです。
 そして、私たちを、後見人や管理人の支配化におかれた未成年者ではなく、自立した子として生きるように導き出してくださいました。しかし、だからと言って、私たちが本当に自立して、誰の助けも借りずに自分ひとりで神の子として立つことができるようになったなどとは言えません。私たちは絶えず、この世の霊力に惑わされ、その支配下に逆戻りしてしまいそうな危うさと弱さを身に帯びているのです。

 自分自身の姿を見て、自分は本当に神の子だ、と言える人は一人もいないと思います。むしろ、そこには繰り返して、やりきれなさと不自由さの嘆きが戻ってきます。しかし、私たちは、神がキリストを遣わしてくださったというクリスマスの事実、そして、十字架の出来事をしっかりと見つめながら、私たちのゆえにではなくて、キリストのゆえに、私たちが神の子とされていることを知るのです。クリスマスと十字架を経て、神につながる確かな救いの道が開かれました。そして、さらにはイースターを経て、私たちは、キリストの復活の力にあずかって、神の子として新しく造られる望みを確かなものとされるのです。
 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の第6章ではっきりと告げました。私たちは、キリストの死にあずかる洗礼を受けて、古い罪の自分に死に、キリストの復活に合わせられて新しい命に生きるものとされる。クリスマスの光は、私たちの洗礼、キリストにある新生、新しい命にまで刺し通すように貫かれています。私たちは、洗礼によって、神の独り子であるキリストと一つに結び合わせられて、キリストの神の子としての命に結ばれます。キリストの兄弟姉妹とされることによって、神を父と呼ぶ、神の子としての特権にあずかるようになるのです。

 これは決して、虚しい望みではありません。確かに、クリスマスにおいて、この地上に刻まれた救いです。そして、十字架と復活を経て、私たちの救いの確かさを示します。さらには、父なる神のもとから御子の霊が降された、あのペンテコステの出来事を通して、私たちに救いの保証を与えてくださいました。パウロは言います。「あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人でもあるのです」(4章6~7節)。
 私たちが神の子としてふさわしいものになっているから、神を父と呼ぶことができる、というのではありません。私たちの心に送られた御子の霊が、「アッバ、父よ」と祈らせてくださるのです。自分自身の感じる不自由さや、やりきれない嘆きに捕らわれて、自分には神を父と呼ぶ資格などない、と思ってしまうとき、あのもろもろの霊力に逆戻りしてしまいます。もとより、私たちにはその資格などないのです。自分の努力や精進で資格を満たそうとすること自体が、この世の霊力の惑わしであり欺きです。自分自身の中には何の確かさもないからこそ、私たちの中に住んでくださる御子の霊が「アッバ、父よ」と叫ばせてくださるのです。

 クリスマスの祝福の中で、私たちが今、喜んで口にすることのできる言葉、それはまさに、「アッバ、父よ」という叫びです。「アッバ、父よ」。私たちは、この祈りをもって、キリストと結ばれている確かさを喜び祝い、神に栄光を帰するのです。  「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ。」クリスマスの祝福がこの世界と共に、そして、皆さまお一人びとりと共にありますように。