2023年11月26日 創立119周年記念礼拝説教「据えられた土台の上に」 東野尚志牧師

詩編 第66編10~12節
コリントの信徒への手紙一 第3章10~17節

 本日は、私たち滝野川教会の創立記念礼拝です。今年は創立119年を数えることになります。一か月前には、学校法人聖学院の創立120周年記念式典が行われました。10月28日の土曜日、埼玉上尾の聖学院大学チャペルにおいて、創立120年を記念する礼拝とパイプオルガンの奉献式が合わせて行われたのです。今から120年前、1903年の2月、本郷にあった基督教会を仮校舎としてディサイプルス派の伝道者養成のための神学校が開校されました。これが聖学院の歴史の始まりです。聖学院神学校と呼ばれるようになりました。翌年、現在の中里、男子の聖学院のあるところに新しい校舎が建てられます。神学校がそこに移転するのに合わせて、神学校で行われていた礼拝を中心にして、神学校の中に教会が造られました。1904年9月のことです。滝野川教会は、聖学院創立の翌年に、神学校の中の学校教会、学院教会として生まれたのです。
 毎年、お話ししていることですけれども、ぜひこの機会に、「滝野川教会発祥の地」と刻んだ記念碑をご覧になることをお奨めします。場所は女子聖学院と男子聖学院の東側の「聖学院通り」沿い、女子聖学院と男子聖学院のちょうど境目、男子聖側の敷地の角にあります。赤っぽい御影石の上に、「滝野川教会発祥の地 1904年9月誕生」と刻んであります。少々目立つ傷がついてしまっていて、修理の必要がありますが、説明文が記されています。「日本基督教団滝野川教会は1904年(明治37年)9月に聖学院の学院教会としてこの地に誕生した。最初の礼拝はアメリカの基督教会(ディサイプルス)派の宣教師H・H・ガイ博士によって設立された聖学院神学校の校舎内において行われた」。この説明の下に、「2004年11月15日 日本基督教団滝野川教会」と記してあります。今から19年前、教会創立100年の節目の年に、この記念碑が設置されたわけです。

 説明文にもはっきりと記されているように、滝野川教会が設立されたのは、1904年の9月のことでした。それは学院内の教会として、独自の教会堂を持たない出発でした。けれども、その28年後、1932年に、滝野川教会は学校から外に出て、町の教会になるという決断をします。今から91年前のことです。学校の外に土地を借りて、自力で新しい会堂を建てました。新会堂の献堂式が行われたのが、11月27日です。学校から外に出るというのは、アメリカのミッションからの指示でもあったようですが、よほどの覚悟があってのことと思います。自給独立の歩みを始めるのは厳しい決断だったはずです。そこから、滝野川教会の新しい歴史が始まったと言っても良いのです。そういう経緯からと推測されます。1904年を教会創立の年としながらも、教会独立の象徴でもある新会堂献堂の月、クリスマス前の11月に、創立記念礼拝を行うようになったと思われるのです。
 昨年の創立記念礼拝においては、滝野川教会にとっての2つの重要な記念についてこんな言い方をしました。1904年の9月が教会誕生の記念であるとすれば、1932年11月は教会成人の記念と呼んでよいかもしれない。確かに、成人とか独立して一人前になったとか言えば聞こえはいいですけれども、現実的には、とても厳しい出発であったようです。1932年といえば、1929年10月からアメリカで始まった世界的な大恐慌のまっただ中です。滝野川教会が聖学院から独立を決めた同じ年、アメリカのミッションは本国の不況による財政難のために、宣教師たちを引き揚げ、伝道地である日本への援助を半減しています。教会に対する会堂建築援助の約束も破棄されました。そういう中での自給独立です。しかも、滝野川教会が外に出た後すぐ、聖学院は新たに学校の中で聖日礼拝や日曜学校を始めたといいます。それは、決裂と言った方が良いのかも知れません。学校の関係者は、日曜日には必ず、学校の礼拝に出席するように求められ、滝野川教会は多くの働き人を失っています。百年史を見ると、会員が減少し、ミッションの補助もなくなったことで収入も減り、牧師の謝儀を半減せざるを得なくなったと記されています。独立の年の受洗者は4名、一方、学校の受洗者は52名、日曜学校の生徒の出席は、前年が335名であったのが、130名に落ち込んだというのです。学院側に移った生徒たちが多かったのだと思われます。何か恨み言が聞こえて来そうな記録ですけれども、それは違うと思います。滝野川教会は、町の教会として、町の人たちに伝道していく新たな使命に向けて大きく舵を切りました。それは、人間的な意地や対立を超えて、神さまの召しに応える決断であったのです。

 聖学院と滝野川教会は、その後も、1歳違いの兄弟のように、互いの距離を保ちながらも、協力関係を結んできました。学校の中にいても、外に出ても、教会の土台は変わらないからです。91年前、滝野川教会は、聖学院の外に出ることによって、目に見える姿や形は変わったかもしれません。けれども、据えられた土台は変わりません。別の土台を求めて、外に出たわけではないのです。イエス・キリストという同じ土台の上に建てられたままで、その伝道の対象と働きが変わっただけです。滝野川教会が外に出た後、聖学院の中で始まった聖日礼拝と日曜学校の働きは、やがて新たな教会へと実を結びます。聖学院教会と名乗るようになります。滝野川教会が新たな使命に立ち上がったことで、また新たな教会が生まれたのです。この2つの教会は、決して対立した存在ではありません。その働きの場が違うだけで、どちらの教会も、イエス・キリストという同じ土台の上に建てられ、それぞれの伝道に励むことによって、神の御業に仕えようとしたのです。そうであればこそ、滝野川教会は今年、創立91年ではなくて、創立119周年を祝うことができるのだと思います。
 聖学院と滝野川教会の協力関係は、その後の歴史の中でも証しされています。日本の国が戦争に向かい、政府の命令で学校教会が閉鎖されることになったとき、希望した信徒たちは皆、滝野川教会の教会員として受け入れられました。さらに今から47年前、1976年には、学校法人聖学院と滝野川教会が協力して、埼玉上尾の地に新たな教会を生み出しました。当時の女子聖短大の祈りの群れを核としながら、緑聖伝道所が生み出されたのです。この伝道所は、やがて、緑聖教会へと成長し、聖学院大学が設立された後は、大学の教室を借りて主の日の礼拝を守った時期もあります。そして、ついには大学と教会が協力して、立派なチャペルを献堂しました。2004年のことです。平日は大学がチャペルとして使い、日曜日は教会が礼拝堂として使います。学校法人聖学院と滝野川教会が協力して生み出した教会ですから、もちろん、ディサイプルスの伝統に立つ教会です。チャペルの正面、講壇の奥には、洗礼槽が設けられています。その後、緑聖教会は聖学院教会と名前を変えて今日に至り、今年は、そのチャペルの洗礼槽の奥に、パイプオルガンが設置されました。イエス・キリストという同じ土台の上に建てられているからこそ、時代が変わり、どのように状況が変わっても、教会同士、また教会と学校の絆も空しくなることはありません。それぞれに与えられた使命に従って、それぞれが豊かに実を結んでいくために、支え合い、助け合うことができるのです。学校法人聖学院は120年、滝野川教会は119年、そして、現在の聖学院教会は47年、聖学院大学は35年、駒込の各校もそれぞれの歴史を刻みながら、神さまの栄光を現わす働きに仕えています。そして、私たちは今、神さまの不思議な導きによって、119年を刻む滝野川教会の働きを共に担う群れとして生かされているのです。

 使徒パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で言いました。「私は、神からいただいた恵みによって、賢い建築家のように、土台を据えました。そして、他の人がその上に建物を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです」(1コリント3章10節)。「賢い建築家」というところは、以前の翻訳では「熟練した建築師」と訳されていました。職人気質を現わすような言葉です。けれども、ここで言われている建物は、実際の建築物のことではありません。確かに、パウロは教会のことを語っているのですけれども、それは、建物として会堂のことではなくて、主によって集められた群れとしての教会のことです。私たちが教会として建て上げられていくときに、何よりも大切なのは基礎となる土台であるというのです。
 パウロは、地中海世界を何度も旅して、各地に教会の基礎を築きました。自分がするのは、基礎造り、つまり土台を据えることだと考えていたようです。その据えられた土台の上に、パウロ自身ではなくて、他の人たち、パウロの働きを受け継いだ者たちが、教会の交わりを形成していくのです。それは、私たちの教会も同じだと思います。教会は、一人の人の一生の長さを超えて生き続けます。決して、一人の人の働きによって基礎が築かれ、完成へと導かれるのではありません。目に見える建物は完成したとしても、教会それ自体に、この地上での完成はあり得ません。多くの人が入れ替わりながら、その働きを共に担い、先人の働きを受け継いでいくのです。今から119年前、滝野川教会が誕生したとき、その設立に関わった人たちは、すでに地上にはいません。数世代にわたって、その働きが受け継がれ、担われて、試練の時を乗り越えつつ、今日を迎えています。土台を据えた人が、完成まで見届けることはできません。それぞれの時代を担った人たちが、教会の形成という神ご自身の業に参与してきたのです。

 そこで、土台を据えたパウロは、後に続いて、建てて行こうとする人たちに忠告します。「おのおの、どのように建てるかに注意すべきです」というのです。具体的に注意すべき点は二つあります。第一は、すでに据えられているイエス・キリストという土台を無視して、別の土台の上に建てるようなことがあってはならない、ということです。そして、第二は、どのような素材を用いて建てようとしているのかに気をつけるということです。まず、教会の土台ということで言えば、主イエスご自身の言葉を思い起こすべきでしょう。マタイによる福音書の第16章において、主イエスは弟子たちに、「あなたがたは私を何者だと言うのか」とお尋ねになりました。すると、ペトロが弟子たちを代表して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。それに対して、主イエスはこう言われました。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である。私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう」(マタイ16章17~18節)。ここで主イエスが言われた岩というのは、ペトロ自身のことというよりは、ペトロが告白した「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白を指していると考えられます。主イエスは、このキリスト告白の言葉の上に、ご自分の教会を建てると言われたのです。
 確かに、パウロはコリント教会への手紙の中で「イエス・キリストというすでに据えられている土台のほかに、誰も他の土台を据えることはできないからです」と言いました(1コリント3章11節)。その場合、イエス・キリストを土台とするというのはどういうことでしょうか。実は、「イエス・キリスト」という名前自体が、信仰告白であるということを思い起こす必要があります。当たり前のように「イエス・キリスト」という呼び名を口にしていると、イエスが名前で、キリストは名字、みたいな誤解をしている人がいるかもしれません。「キリスト」はイエスさまの名字ではありません。「キリスト」は、油注がれた者という意味の言葉で、ヘブライ語に遡れば、「メシア」という言葉のギリシア語訳ということになります。神がお選びになった王や預言者を立てるとき、その頭に油を注いだことに由来します。そこから、メシア、キリスト、という言葉は、神に選ばれた救い主を意味するようになりました。ですから、私たちは「イエス・キリスト」と口にするたびに、「イエスはキリスト」「イエスこそが救い主」という信仰告白をしていることになるのです。パウロが、「イエス・キリスト」という土台が据えられているというのは、「イエスはキリスト」と告白する、その信仰告白こそが教会の土台となっているということだと言ってよいのです。

 しかも、パウロが宣べ伝えたキリストは、十字架につけられたキリストです。同じ手紙の第2章の初めでパウロは語ります。「きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘義を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(2章1~2節)。十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい、というのは、十字架につけられたキリスト以外、何も語るまい、と言い換えてもよいと思います。パウロは、人々が聞いて喜ぶような知恵の言葉、人を感動させるような優れた言葉を語るのではなくて、ただひたすら、十字架につけられたキリストのことを語りました。私たちの罪をすべて担い、十字架につけられて、私たちの身代わりとなって罪の裁きを受けられた主イエスこそは、罪からの救い主キリストなのです。教会は、この罪の赦しの恵みの上に建てられます。十字架の主を救い主キリストと告白する信仰告白を土台として建てられるのです。
 パウロは、自分の知恵や力に頼って生きていこうとする者にとっては、十字架がつまずきになるということをよく知っていました。十字架抜きのキリストを宣べ伝えた方が、人々の心にすんなりと受け入れられやすいということ、そこに潜む大きな誘惑をよくわきまえていました。主イエス・キリストを愛の模範として描いて、倫理道徳のお手本として示しながら、さあ、あなたがたも、主イエスにならって、自分の人生を高め、人格を磨いていけばよい。そのように説いた方がずっと分かりやすいし、受け入れられやすいのです。けれども、神に背いた私たちの罪は、ただ道徳的な教えを聞いて、深く反省して改善すればすむというような生やさしいものではありません。変わろうと思って自分の決心や努力で変われるなら、苦労しません。しかし、私たちは、いけないと分かっており、変わらなければと思っていても、自分の力では変われない、そういう実にやっかいな罪の闇を抱えているのです。私たちの罪は、神の独り子が身代わりとなってくださらなければどうしようもないほどに大きく重く、私たちの人生にのしかかっています。その罪を私たちに代わって背負い、私たちの罪の贖いのために、御子イエスは十字架の上で死なれたのです。パウロが宣べ伝えたのは、この十字架のキリストです。キリストの十字架による罪の赦しの福音です。それ以外のものを土台として据えることはできないのです。

 キリストを土台として教会を建てていくとき、気をつけなければならない第二のことは、どのような素材を用いて建てるのか、ということです。第3章12節にこうあります。「この土台の上に、誰かが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てるなら、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれが明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを試すからです」。十字架のキリストという正しい土台の上に建てるとしても、何を用いるかで建物の姿は違ってきます。ここに挙げられた六つの素材は、二組に分けられます。「金、銀、宝石」、これは、高価なものであり、古来、神の神殿を建てるために献げられ、用いられたものです。それに対して、「木、草、わら」というのは、安価なものであり、自分の住まいを造るのに気安く用いられたものです。大事なことは、自分の好みで、自分のくつろげる家を建てるのではなくて、神がお住まいになる家を建てるのです。そのためには、自分の思いや願いによってではなくて、神の御心に従って建てていかなければなりません。しかも、それぞれの仕事を判定する「かの日」が来るのです。
 パウロは、おのおのの仕事が明るみに出される「かの日」について語ります。「かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを試すからです」。「かの日」というのは、「終わりの日」です。すべてのものを造られた神が、すべてを御心によってお裁きになる終わりのときです。そのとき、厳しい裁きの火によって、残るものと燃え尽きてしまうものとに分かれます。神の裁きに耐えうるものと、そうでないものとが分けられるのです。私たちの仕事は、人の目に喜ばれるか、人の目に立派に映るかどうかで評価されるのではありません。神の裁きに耐えうるかどうかが問われます。据えられた土台は十字架のキリストです。このキリストの愛と赦しにしっかりと根ざして、それにふさわしい教会を形造ってきたかどうかが問われるのです。
 しかし、間違えてはなりません。かの日が訪れ、裁きの火によって焼かれるとき、確かに、木や草、わらで建てた建物は焼き尽くされてしまうでしょう。そうなれば、大きな損害を被ることになります。しかし、私たちの仕事がすべて燃え尽きたとしても、その人自身は、救われるのです。パウロは14節以下に記します。「誰かが建てた仕事が残れば、その人は報酬を受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐるようにして救われます」。あたかも、火事の現場から救い出された人のように、全身、焼け焦げ、ぼろぼろになりながらも、救われる、というのです。なぜでしょうか。それは、私たちの建てる家、すなわち、教会とそこに連なる私たちの人生がどんなに不完全であり、覚束ないものであるとしても、土台はしっかりと据えられているからです。たとえ私たちの仕事は燃え尽きてしまったとしても、土台は燃え残るからです。十字架のキリストを土台として建てられている限り、私たちは、終わりの日の裁きの火の中をくぐりぬけて、死を突き抜けて復活の命の道を開いてくださったお方のゆえに、新しい命にあずかることができるのです。

 119年前、滝野川教会は、確かな土台を据えられて、学校教会としての歩みを始めました。途中で、学校教会から町の教会へと、その装いと働きは大きく変わりました。それぞれの時代に生きた先達が、力を尽くして建てた教会の営みが私たちにまで続いています。私たちの仕事が吟味されるのは、終わりの日です。それが、神さまの前にどのように評価されるかは、神さまにお任せするしかありません。先人たちも、そのようにして、それぞれに託された働きを精一杯に担ってきたのだと思います。その働きを受け継いだ私たちも、私たちが生きる時代、共にキリストの教会として建て上げられていく業にあずかりながら、一所懸命に、この建築と形成の働きを担って行きたいと思います。今年は学校の120周年、そして、来年は教会の120周年です。じっくりと備えながら、キリストの教会としてふさわしい記念の年を迎えたいと願います。  教会が150周年を祝うとき、私をはじめとして多くの者たちは、すでに地上にいないことと思います。しかし、その時には、新しく加わり、育てられた世代が、教会の歴史を振り返りながら、神さまの前に感謝を献げることになると思います。そのようにして、教会が生き続けていくことを望み見ながら、今を生きる私たちが担うべき務めを、共に担って行きたいと思います。