2023年11月12日 主日礼拝説教「神の子たちを一つに集める」 東野尚志牧師

イザヤ書 第49章5~6節
ヨハネによる福音書 第11章45~57節

 ヨハネによる福音書第11章の結びのところを読みました。主日の礼拝において、ヨハネによる福音書を読み始めたのは今から2年前、2021年の9月でした。コロナ禍の真っ最中に、この福音書を読み始めたのです。それから、2年と2か月を経て、11章の終わりまでたどり着きました。なぜ初めにこんな話をするかと申しますと、11章はこの福音書全体のちょうど真ん中にあたるところだからです。ヨハネによる福音書は全部で21章まであります。章の数で見ても、11章が真ん中です。ページ数で計算して分量的に見ても、11章がヨハネの福音書のちょうど真ん中にあたるのです。
 その11章の真ん中のあたりに、主イエスとマルタのやり取りが記されています。主イエスがマルタに言われます。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。マルタは答えます。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています」。一点の迷いも揺らぎも見られない、見事な信仰告白です。主イエスが、マルタの弟であるラザロをよみがえらせるのは、この後の話になります。つまり、マルタは、主イエスがラザロをよみがえらせたのを見たから信じたのではなくて、主イエスの言葉を聞いて、主イエスを信じたのです。そして、その信仰をもって、ラザロの復活に立ち会うことになるのです。

 見ないで信じる信仰。これが、ヨハネによる福音書が私たちに求めている信仰なのではないか、と思います。この福音書の結び近く、主イエスの復活の記事に続けて、主イエスと十二弟子のひとりであったトマスのやり取りが記されています。復活された主イエスが、最初に弟子たちの前に現れてくださったとき、たまたまトマスだけはそこに居合わせませんでした。それで、他の弟子たちが主イエスを見たことを話しても、トマスは信じようとしなかったのです。主イエスの手に釘の跡を見、自分の指をその釘跡に入れてみなければ信じない、と言いました。自分の目で見て、自分の手で触れなければ、主イエスが復活されたことを信じない、と言い切ったのです。今日風に言えば、「エビデンス」を求めたわけです。実証主義者の代表とも言えますけれど、トマスは、後々、「疑い深いトマス」という、何とも不名誉なあだ名で呼ばれることになります。
 主イエスが復活された一週間後の日曜日、今度はトマスも一緒にいるところに、主イエスが現れてくださいました。平和の挨拶を告げられた後、トマスを見つめられます。十字架の傷が刻まれた手を差し伸べるようにして、トマスに、さあ見なさい、触ってごらん、と言って呼びかけられました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスが「私の主、私の神よ」と告白すると、主はトマスに言われました。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」。もちろん、見たからといって、見た人すべてが信じるわけではありません。信じない人は、いくらでも信じない理屈をつけて、背を向けます。主イエスが来られたことによって、信じる者と信じない者が分けられることになったのです。

 ヨハネによる福音書には、主イエスご自身の復活を除いて、七つの奇跡の業が記されています。それらはすべて、「しるし」と呼ばれていました。この七つの奇跡、七つのしるしの最後にして最大のものが、ラザロの復活でした。前半部分の集大成とも言えます。ラザロは、死んで墓の中に葬られ、四日もたっており、すでにその肉が腐り始めて死臭さえ漂うような状態であったにもかかわらず、主イエスが大声で、「ラザロ、出て来なさい」と呼ばれると、手と足を布で巻かれて、顔が覆いで包まれたまま、墓の中から出て来た、というのです。今日は、その後の45節以下のところを読みました。ラザロの復活という最後、最大のしるしが行われた結果、何が起こったかということを語っているのです。
 まず45節に記されます。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを見たユダヤ人の多くは、イエスを信じた」。ラザロが死んで悲しみにくれているマルタとマリアを慰めるために、多くのユダヤ人たちがベタニアの家を訪ねていました。すでに葬りの営みが始まっていました。ところが、死んで葬られていたラザロを復活させるという驚くべきしるしを見て、集まっていたユダヤ人たちの多くが主イエスを信じたというのです。46節は「しかし」と続きます。「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」。主イエスがラザロを復活させたことを、わざわざ、ファリサイ派の人たちのところへ出かけて行って、報告したというのです。明らかに、悪意を持って通報したのです。それを受けて、祭司長たちとファリサイ派の人たちは、最高法院を召集します。主イエスをどうするか、対策を協議したというのです。53節にその結論が記されています。「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」。

 確かにこれまでも、主イエスに石を投げようとする人がいたり、捕らえようとしたり、殺そうとしたりする人がいました。しかし、それはあくまでも、ファリサイ派の学者たちの中で、主イエスに反感を覚えた者たちが、個人的にまた数人でたくらんだことでした。ところが、ラザロの復活という驚くべき奇跡を行った主イエスに対して、ユダヤ人の最高法院が、正式に死刑判決を下したということになります。主イエスはユダヤの議会のお尋ね者になったということです。確かに、この後で、主イエスが逮捕されると、夜中のうちに最高法院が召集されて裁きが行われています。けれども、それは形を整えるための手続きであって、最高法院はすでに、この日、主イエスを処刑する意図を持って行動を開始したということになります。これが、ヨハネによる福音書の前半部分の結びということになるのです。
 この決定を受けて、54節に記されます。「それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された」。さらに55節。「さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた」。ヨハネの福音書では、これまでにも何度か、主イエスが過越祭のとき、エルサレムに上られたという記事がありました。しかし、これが、地上の主イエスが迎えられる最後の過越祭になります。この過越祭のときに、主イエスは十字架にかけられ殺されるのです。第12章から、ヨハネによる福音書の後半部分に入ることになります。その12節以下に描かれているのは、エルサレム入城の記事です。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、四つの福音書のすべてが、このエルサレム入城の記事を記しています。ここから、地上における主イエスの最後の一週間、十字架へと向かう受難週の出来事が記されていくことになります。つまり、ヨハネによる福音書の後ろ半分は、主イエスの受難と復活の出来事に集中して行くことになるのです。最初に書かれた福音書であるマルコによる福音書は、全体の3分の1の分量を最後の一週間の出来事を描くのに宛てています。ヨハネはそれ以上です。全体の半分を費やして、受難週の出来事を描いていくのです。

 ここで、改めて、主イエスに対する死刑判決を下した、最高法院でのやり取りを見ていきたいと思います。主イエスがラザロを復活させたという通報を受けた祭司長たちとファリサイ派の人たちが、最高法院を召集したと言います。最高法院は、七十人議会とも呼ばれます。ユダヤ人の間では「サンヘドリン」と呼ばれていました。この当時、ユダヤはローマ帝国の支配下に置かれていました。その支配のもとで、ユダヤ人の間での宗教的、政治的な問題について協議をして決定を下すのが最高法院の務めでした。最高法院は、祭司長たち、民の長老たち、またファリサイ派の律法学者たちで構成されており、召集するのは、大祭司を頭とする祭司長たちのグループでした。本来ならば、ファリサイ派の学者たちは召集される側でしたけれども、福音書が書かれた頃には、祭司長たちのグループとファリサイ派のグループはかなりの部分重なり合っていたと思われます。そこで審議されたのは、主イエスをどうするかということです。
 47節と48節を読みます。「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の土地も国民も奪ってしまうだろう』」。前半と後半のつながりが、少し分かりにくいと思われるかも知れません。主イエスが多くのしるしを行っておられ、死んだ人を復活させたというようなことまで知られるようになると、皆が主イエスを信じるようになってしまう。それがどうして、ローマ人の話と結びつくのでしょうか。当時、ローマ帝国の支配下に置かれていることに不満を抱いているユダヤ人は大勢いました。神に選ばれた特別な民である自分たちが、どうして異邦人の支配を受けなければならないのか。この不満が、約束された救い主メシアの来臨を待つ望みと結びつきます。ユダヤの民は、ローマの支配から解放してくれる救い主が現れることを待ち望んでいました。そこへ、死んだ者をも復活させる驚くべき力をもったイエスという男が現れた。この方こそは、約束されたメシア救い主ではないか。皆がそう信じて、主イエスをメシアとして担ぎ上げて、ローマ帝国の支配に抵抗したりしたらどうなるか。ローマ帝国は、反乱を鎮めるために、圧倒的な軍事力をもって攻めて来て、エルサレムの神殿は破壊され、ユダヤの国は滅ぼされてしまうに違いない。ユダヤの土地も民もすべてローマに奪われてしまうことになりかねない。民の指導者たちは、それを恐れたのです。

 するとそのとき、最高法院の召集者であった大祭司が口を開きます。49節と50節です。「彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなたがたに好都合だとは考えないのか』」。一人の人が死ぬのと、国民全体が滅びるのと、そのどちらを選ぶべきか考えてみなさい、と言うのです。「一人の人」というのは、主イエスのことです。つまりは、イエス一人を殺してしまえば、それで話は済むではないか、というのです。国を滅ぼす騒動の元になりそうなイエスを、今の内に排除してしまえば、反乱も起こらず、結局は国民全体を救うことになる。政治家の言いそうなことです。国民全体が滅びないように、と言いながら、実際に恐れているのは、自分たちの権威の支えであるエルサレムの神殿が滅びることです。そうならないように、今の内に、不安の種を取り除けばよいと言ったのです。
 会議に集まっていた人たちは、ローマ人を恐れて、騒動が起こらないように、どうすればよいかと悩んでいました。みんなが最初から、主イエスを殺そうと考えていたわけではないと思います。けれども、大祭司カイアファの言葉が、最高法院の思いを一つにしてしまいます。この男さえいなくなれば、ユダヤは安泰だ。すべては丸く収まる。ファリサイ派の人たちの中には、主イエスに教えを請うたニコデモのような人もいましたけれども、主イエスに対して憎しみを抱いている者も少なくありませんでした。実際に、主イエスを殺そうとした人もいました。それが今や、最高法院の決定として、お墨付きを得ることになります。主イエスを殺すのは、ただ個人的な妬みや憎しみのためではなくて、国を守るため、国民全体を守るためには必要であり、正しいことである。正義の名の下に、一人の人の命を犠牲にすることが決まったのです。もう良心のとがめを感じる必要はありません。「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」というのです。恐ろしいことです。主イエスを殺すことが正しいことと認められたのです。

 けれども、聖書はさらに、深い次元で事柄を捉えています。福音書記者は、そこに注を付けるように、但し書きを添えるように語るのです。51節です。「これは、カイアファが自分から言ったのではない。その年の大祭司であったので預言をして、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである」。主イエス一人が死ぬことによって国民全体が滅びから救われるというカイアファの言葉が、実は預言として語られた言葉であったというのです。もちろん、カイアファがそれを自覚していたわけではありません。カイアファの発言そのものは、何とかして、自分たちの命と権威を守ろうとする、まことに姑息な知恵による判断でした。結局は自分の立場を守ろうとしただけの発言です。神さまのことなど少しも考えていません。けれども、一人の人の犠牲の死によって、すべての民が救われるということ、それこそは、父なる神さまの救いのご計画であったというのです。
 50節では「民の代わりに」と言われていました。51節では「国民のために」と記されています。「代わりに」と訳されているのも、「ために」と訳されているのも、聖書のもとの言葉同じです。主イエスは、まさに、私たちのため、私たちを罪と死の支配から救い出すために、私たちの身代わりとなって、罪の裁きとしての十字架の死を引き受けてくださいました。ただひとり、罪のないお方である神の御子が、私たちすべての罪を背負って、十字架にかかって死んでくださることによって、私たちの罪を赦し、私たちを罪の支配から解放してくださいました。そして、父なる神は、御子イエスを死人の中から復活させることによって、死の力を打ち破り、主イエスを信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るという救いの道を開いてくださったのです。カイアファは、自分たちの都合の良いように主イエスの死を求め、最高法院もそれに賛同しました。しかし、そのような人間の利己的な企みをも用いて、神さまはご自身の救いの計画を実現してくださいました。カイアファは、自分でも知らないうちに、一人の人の死によるすべての人の救いという、神のご計画を担う者とされたのです。

 「イエスが国民のために死ぬ」と言うとき、そこで言われた「国民」というのは、神の民であるユダヤ人のことを指しています。けれども、福音書記者の注には続きがあります。52節です。「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」。「散らされている」という言葉を目にするとき、すぐに思い浮かぶのは、全世界に散らされたユダヤ人のことかもしれません。特に、紀元70年、ローマ帝国によって、エルサレムの神殿は徹底的に破壊され、ユダヤ人はパレスチナの地域から追い出され、散らされていきました。この福音書の著者は、その厳しい現実をも目の当たりにしていたはずです。大祭司カイアファの提案と最高議会の決定によって、紀元30年代の初め、ユダヤ滅亡の危機的状況を切り抜けたと思われました。一人の人を殺すことで、国民全体が救われたはずでした。しかし、結局のところ、その40年後には、エルサレム神殿は徹底的に破壊されてしまい、民は散らされてしまいました。その離散の民が、第二次世界大戦後にエルサレムに集まって来てイスラエル共和国を建国しました。神がアブラハムとその子孫に与えると約束された土地に戻ってきたのです。しかし、そのことで、すでにその地に住んでいたパレスチナの人たちが追い出され、住む場所を制限されて、以来今日まで中東の戦争が続いているのです。まことに痛ましいことであると思います。
 ただし、ここで言われているのは、「散らされている民」ではなくて、「散らされている神の子たち」とあります。それは、ユダヤ人という枠を超えて、散らされた異邦人をも視野に入れているのではないでしょうか。創世記の11章によれば、天にまで届く高い塔を建てて、自分たちの名を挙げようとした人間は、全地の面に散らされていきました。言葉が乱され、塔の建築を続けることもできなくなり、全地に散らされていったのです。そして、続く第12章において、神さまはアブラム、後のアブラハムをお選びになりました。散らされたすべての民の中から、一人の人を召し出し、アブラハム、イサク、ヤコブと続いていく小さな一つの民をお選びになったのです。アブラムに新たな旅立ちをお命じになった神さまは、約束して言われました。「私はあなたを大いなる国民とし、祝福しあなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福の基となる。あなたを祝福する人を私は祝福しあなたを呪う人を私は呪う。地上のすべての氏族はあなたによって祝福される」(創世記12章2~3節)。神さまは、アブラハムを祝福の基として、全地に散らされた民を呼び集め、祝福に入れようと計画されたのです。

 ところが、選民意識に捕らわれたユダヤの民は、神を知らない異邦人を見下し、差別して、自分たちだけが、神の掟を守ることによって救われると考えるようになりました。選びの民が、その選ばれた本当の目的と意味を見失ってしまったところに、神さまは、一人の人を遣わされました。大切な独り子イエスをユダヤ人のひとりとしてお遣わしになり、主イエスの十字架の死と復活による贖いと救いの道を備えてくださったのです。そして、神さまは、ユダヤ人と異邦人の区別なしに、全地に散らされた者たちが、独り子イエスを信じることによって、一人も滅びることなく永遠の命を得るようにと願っておられます。主イエスを信じ、主イエスに結ばれる洗礼を受けた者たちが、神の子としての新たな命を受けるようにと望んでおられるのです。まさに、そのために、「散らされている神の子たちを一つに集めるために」、主イエスは十字架への道を歩んでくださいました。全世界に散らされている神の子たちが主イエスのもとに集められ、主イエス・キリストを頭とする一つの神の民とされるのです。
 主イエスは、トマスに向かって、「見ないで信じる人は、幸いである」と言われました。私たちは、しるしを見たから信じるのではありません。主イエスの言葉を聞いて信じます。確かに、見たから信じるのではありませんけれども、信じることによって見るのではないでしょうか。主イエスを信じることによって、見えない主のお姿を、信仰の目をもって見ることができるようになる。散らされていた神の子たちが一つに集められて、壮大な礼拝をささげる様子を望み見ることができる。さらには、聖餐の食卓にあずかることを通して、私たちはこの救いの恵みを目で見て、手で触れ、味わうことができるのです。
 ヨハネが書いたとされる手紙は、その冒頭に告げています。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの、すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、告げ知らせるのです。――」(1ヨハネ1章1~2節)。主の食卓にあずかり、目で見て、手で触れ、味わった恵みを生きることによって、私たちも、この命の証しを持ち運ぶ者とされます。一人でも多くの人がこの命と出会い、主の御前に共に集う一つの民に加えられて、主の恵みと祝福にあずかることができますように。