2023年1月29日 主日礼拝説教「すべての人への祝福」 堺正貴神学生

イザヤ書第61章1節
マタイによる福音書第5章3節

 幸いなるかな。私たちは、神様にそう呼びかけられています。山上の説教と呼ばれる個所の冒頭において、私たち一人一人が神様から祝福を受けています。
 今日与えられました聖書箇所は、「心の貧しい人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである」(マタイ 5:3)でした。この後に 7 つの祝福が続きます。文語訳は「幸いなるかな、心の貧しき者」となっています。ギリシャ語原文の語順で言うと文語訳のように幸いなるかな、がまず来ます。「幸いなるかな、貧しき人々」です。その後に「霊において」という言葉が続きます。心と訳されている言葉は、霊、プネウマです。
 霊において貧しい者たち。そう言われていると信仰者である私たちは、まさにこれは、私たちのことだと思えるかもしれない。けれども、幸いなるかな、貧しい人々、とだけ聞くと、何となく自分たちとあまり関係がないように感じてしまうということがあるかもしれません。自分はそんなに貧しくないなぁと思う。日本全体が豊かな国です。その中で貧しくとも、案外物資的には豊かに生きているのです。けれども、ルカ福音書では、幸いなるかな、貧しい者たちよ、とそれだけ言っている。マタイ福音書においても、私たちは、この祝福の言葉において、神様が、まず、貧しいもの、悲しんでいる者、苦しんでいる者、虐げられている者たちに手を差し伸べている方だということを思い起こさなければならないと思います。
 イスラエルの信仰告白はこうでした。申命記 7 章 8 節-9 節をお読みします。「あなたがたがどの民よりも数が多かったから、主があなたがたに心引かれて選んだのではない。むしろ、あなたがたは、どの民よりも少なかった。ただ、あなたがたに対する主の愛のゆえに、また、あなたがたの先祖に誓われた誓いを守るために、主は力強い手によってあなたがたを導き出し、奴隷の家、エジプトの王ファラオの手から、あなたを贖い出したのである」。イスラエルの民は、自分たちが神様の恵みに一切ふさわしくない惨めな者たちであると知っていました。そのような自分たちを選び、苦しい時に救ってくださる方として神様の愛を知りました。そして、最も惨めでふさわしくない自分たちの選びを通して、すべての民を神様が招いておられることを知っていました。
  イエス様は、そのイスラエルの神の言葉を伝えているのです。貧しい者たち、呻いている者たち、義に飢え渇いている者たちに幸いであると言うことによって、救いの時を告げておられます。ずっと闇の中をさまよってきたような民がいたのです。そう言うと私たちは、その民が、あのイスラエルの民、今は絶望していても確かに神様の救いを信じて希望を持っていた民と思いがちです。けれども、今日の箇所において、イエス様のもとに集まってきた民には、異邦の人々がすでに混じっていました。山上の説教が始まる前、4 章 23 節から 25 節をお読みしたいと思います。
イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒やされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まり、人々がイエスのところへ、いろいろな病気や痛みに苦しむ者、悪霊に取りつかれた者、発作に悩む者、体の麻痺した者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々を癒やされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、さらにヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに付いて行った」。
 シリアやデカポリスなどの異邦の国から大勢の人々がすでに集まっていたのです。このすべての人々に御国の福音は伝えられていたでしょう。御国の福音。そう、イエス様は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」とそのように福音を宣べ伝え始めていたのです。それが 4 章 17 節です。そのすぐあと、4 章 18-22 節までが、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネがイエス様に招かれて弟子になる場面です。その直後に、先に述べた福音を伝え、病や悪霊に悩まされている人々の癒しが始まる。ですから、4 人の弟子たちは、招かれてすぐイエス様の救いの御業を見ることになったわけです。
 そして、次に 5 章に入り山上の説教が始まる。そのオープニングは、こうでした。5 章 1 節から 2 節をお読みします。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが御もとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた」。
 イエス様が山に登られて、教えられたから、山上の説教なのでした。
 ここで弟子たちが御もとに来たということから、この説教は弟子たちだけに告げらえたこと、信仰者だけに意味あるものとしばしば解釈されてきました。弟子たちと他の群衆とは、分けられている。それを前提にして語られる説教もあるでしょう。けれども、山上の説教が終わった後、7 章 28 節で「群衆はその教えに驚いた」と書いてあります。イエス様に癒された、異邦の民を含むすべての群衆がイエス様の言葉を聞いたのです。弟子と言っても、まだイエス様に招かれたばかりの者たちです。イエス様の言葉をしっかり聞こうとしてすぐそばまで来た。けれども、他の群衆にも聞こえるようにイエス様はお語りになったのです。弟子たちと群衆には距離があります。イエス様は、すべての群衆に、弟子になってすぐそばまで来なさいと招いておられるのです。
 あのイスラエルの民がエジプトの奴隷から解放されたように、「いろいろな病気や痛みに苦しむ者、悪霊に取りつかれた者、発作に悩む者、体の麻痺した者など、あらゆる病人」が癒されたのです。その癒しが、天の国が近づいた、という福音と結びついています。そして今、天の国が近づいたことによる祝福が告げられます。集った(つどった)すべての人々に告げられます。集ったすべての人々がすでに癒されています。ですから、その祝福は現実感を持ったものだったに違いありません。その祝福を信じられた人々には、暗い闇に光が差し込んでくるような喜びが与えられたのではないかとも思います。けれどもイエス様の言葉を聞いて、今まで待望していた救いが到来したとはっきりわかった人々は、やはりイスラエルの民であったでしょう。
 イエス様のこの山上の祝福はイザヤ書の 61 章を背景にしていると言われます。つまり、この祝福を聞いたイスラエルの人々は、あのイザヤの言葉が成し遂げられることになるという福音を聞いたのです。61 章の 1節はこうでした。
 「主なる神の霊が私に臨んだ。/主が私に油を注いだからである。/苦しむ人に良い知らせを伝えるため/主が私を遣わされた。/心の打ち砕かれた人を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人に解放を告げるために
 主に油を注がれた者が、苦しむ人に良い知らせを、つまり福音を伝えるというのです。主の油を注がれた者。それはメシアでした。イスラエルが待望した救い主でした。イエス様が今その福音を伝えている。
 イザヤ書で語られた、苦しむ人であれ、心の打ち砕かれた人であれ、捕らわれた人であれ、すべて霊において貧しい人々です。皆、神様により頼むしか救いのない人たちでした。踏みつけにされて、乞食、物乞いの地位にまで落とされ、ただ神様に救いを乞うしかなかった人々です。そのような人々は霊においてだけでなくて、肉体的にも貧しかったのです。イスラエルの神様はまずそのような人々に救いの福音を語るのです。けれども、ずいぶん裕福なような私たちも、様々な苦しみと無縁ではありません。死は絶えず近くにあります。普通に生きていても、人から踏みつけにされていると思うようなことはあります。病の中の苦しみ、けがの苦しみ、家族を失う苦しみがあります。しかし、私たち信仰者は、さらにまた、自分たちの罪の問題を知っております。罪があるからこそ、霊において私たちは自分たちには何も持っていないといえるのです。私たち自身は、神様に近づくこともできないと知っているのです。けれど、神様の方から私たちに近づいてきてくださった。と福音は告げています。天の国は近づいたのです。自分には何もないことに絶望して、とりわけ霊において何もないことに絶望して、ただ神様だけにしか頼るもののない者には、もう祝福が高らかに訪れている。なぜなら、天の国はその人たちの者だからだというのです。確かにその人々の期待が満たされるからだというのです。
 今、なぜなら、と申しました。そうではないのではないかと思った方もおられるかもしれません。霊において貧しい者、つまり神にしかより頼むものがない者は、すでに天の国の者である。だからこそ、幸いなるかなと祝福が告げられているのだという意見が多数あります。聖書教会共同訳をお読みしましょう。「心の貧しい人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである」。
 つまり、なぜなら「天の国はその人たちのものである」とは訳されていないのですね。一つの理由は、天の国はその人たちの者であると現在形で書かれていることです。未来の出来事ではない、今、すでに起きてしまっていることだ、と思える。けれども原文を見るとこの後に続く祝福は未来のこととして語られています。でも訳文はその現在の出来事として書かれている。あえて、聖書教会共同訳を、時制を変えて原文通りに読んでみましょう。こうなります。
 「心の貧しい人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである」。
 次は、「悲しむ人々は、幸いである/その人たちは慰められるだろう」。と未来形なのです。続けましょう。「へりくだった人々は、幸いである/その人たちは地を受け継ぐだろう」。やはり未来形。「義に飢え渇く人々は、幸いである/その人たちは満たされるだろう」。未来形。
 「憐れみ深い人々は、幸いである/その人たちは憐れみを受けるだろう」。未来形ですね。
心の清い人々は、幸いである/その人たちは神を見るだろう」。
平和を造る人々は、幸いである/その人たちは神の子と呼ばれるだろう」。ずっと未来形。だけどここで耳を澄ませてください。最後の祝福です。
義のために迫害された人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである」。
 現在形なのです。天の国はその人たちのものである。この同じ言葉が最初と最後に現在形できて、枠を作っている。その間の祝福が未来形なのです。実は、天の国はその人たちの者であるという出来事はやはり未来のことを言っていると考えられます。天の国は近づいたけれどまだこの地上の完全な現実ではないのです。その証拠は天の国と言ったとき、ギリシャ語の言語ではその天は複数形なのです。マタイはまだ見えない天、神様がいるところの天を指すとき複数形を使う。そして自然の空、私たちが見上げると見える天は単数を使う。多少例外はあるのですが、そのように言える。
 マタイは見える現実になっていないものとして、天の国と言っている。だから心の貧しい人々は、幸いである。なぜなら、天の国はその人々のものになるだろうからと言ってもいい。しかし、現在形で述べることによって、今まさに天の国が近づいたことがものすごい現実感のある喜ばしい知らせとして鳴り響くのです。霊において貧しい人々とはすべてを神さまにより頼む人でした。イスラエルは様々な国に征服されてきた。中には神様のことを捨てて、支配者にこびへつらってうまい汁を吸う人もいた。そうした中、ただ神様だけを求めて生きようとした人々。そのような人々は貧しくあった。神様のために踏みつけにされた人々でもあった。霊において貧しい人々はまた神様に忠実な義なる人でもあった。義なるゆえに迫害された人々であった。だから霊において貧しい人々と義のために迫害された人々は、同じだとも言われています。そのような神様を求めて苦しんでいる人々に天の国はその人たちのものになるだろうという。その解放の時を告げて、幸いなるかなと呼びかけているのです。
 そして、天の国はその人々のものであると 5 章 3 節と 10 節で枠づけられたその間の人々。悲しむ人々、へりくだった人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を造る人々、は皆天の国の者たちなんだと言っているのです。悲しむ人々が慰められるのは、天の国がその人たちのものになるだろうからです。実際に未来形で起こるとされているこれらの出来事は天の国でしか実現しない。悲しむ人々とは、実は救いを求めて呻いている人々です。義に飢え渇く者たちと同じです。彼らが慰められ、満たされるのは、天の国に入れられるからです。天とは対照的なこの地上の世界、現実の世は厳しい。憐み深い人々は憐みを受けるどころか食い物にされるかもしれない。そのような人々が憐みを受けるのは天の国においてなのです。
 へりくだるものは地を受け継ぐどころか、こづかれ、いじめられ、馬鹿にされ、住んでいる土地から追い出されるかもしれない。そうならないために、へりくだるどころか、いっぱい鎧をつけて見栄えを良くしないといけないと考えだしたりする。強がらなければ生きていけないと思い始めるのが、この世ではないでしょうか。
 心の清い者は神を見るでしょうか。むしろ私利私欲だけがうごめいているどす黒い現実を見るのではないでしょうか。そして傷き倒れるのではないでしょうか。しかし、天の国では神を見るのです。
 平和を作る人はどうでしょうか。敵と味方をはっきり分ける世界です。そこで争いを解決しようとするものはときに味方からも敵に通じている者として疑われます。敵を敵として戦うことが正しいのだ、平和より戦争の方が倫理的に優れているという人々が多いのが現実です。自分たちにとっての平和が訪れるのは敵を征服したときです。イエス様の時代のパックス・ロマーナ、ローマの平和はそのような帝国支配の平和ともいえましょう。そしてローマ皇帝は平和を作った神の子と呼ばれました。しかし、イスラエルの民はその支配に満足できず、独立戦争を起こし敗北するのです。天の国の支配は皇帝の支配と異なる。ほんとうに柔和で平和を作るもの、人を自分の思うままに支配するのではなく愛し生かすものが神の子と呼ばれるのです。イエス様は天の父のみを主としなさいと言います。その天の国では、一番偉い者が仕える者にならなければならないのです。神様こそが平和をおつくりになる方、その方の支配されるのが天の国です。この神様のみを主と仰ぐ天の国の生き方をしたとき、この地上では迫害されるといいます。そしてイエス様ご自身が迫害の苦しみを受けられた。
 こう読んでいくと気づかせられるのです。この祝福されている人々、しかし、完全にそのすべての祝福が当てはまる人は、実はイエス様を置いてほかにいない。確かにこのイエス様においてだけ、地上において天の国が実現することになります。天の国は近づいた。けれども、多くの人々がその天の国に入るには、もう少し時が必要でした。そう、イエス様の十字架と復活が必要だったのです。天の国とは異なる、この地上の現実、その罪をお引き受けるためにイエス様は十字架にかかったのです。そのために徹底して霊において貧しくなられた。「わが神、わが神なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ぶほど貧しくなられた。神の子が自分のうちにはもう神様はともにいないというほど貧しくなられた。迫害され苦しみを受けられた。すべての者のために血を流された。そこまでして、あらゆる罪人を神さまの下へと招こうとされた。この方こそ、神様との和解を成し遂げられた方でした。平和を作り出す神の子でした。そこまでへりくだったイエス様は、復活され、この地上の真の主人となられた。つまり、この地を継ぐ者とおなりになったのです。
 このイエス様において、私たちは霊において貧しい者のほんとうの姿を見たのです。この神の御子だけがすべてを捨てることができた。そのとき、私たちの罪は確かに暴かれたのです。何も貧しくならず、私のものは私のものと、かたくなに自分に固執する者でありました。自分のものを絶対に手放そうとしない者でありました。私たちは、あの天の国を生ききって神様から完全に祝福された御子を、殺す者だったのです。マタイは天と地の対照を繰り返し強調します。あの天の国の生き方とこの地上の現実はどれほど違うものなのか。私たちは知っているはずです。やったらやりかえせ、そういう思いがたえず渦巻いている世界に生きてきたのです。「我々は我々自身を欲する」という生き方をしてきたのです。自分自身を欲するために、神様から独立して自分で善悪を判断しようとしてきたのです。創世記のアダムの堕落の物語は、そのような人間の世界を描いています。
 「我々は我々自身を欲する」と言いました。誰の言葉かご存じでしょうか。ナチスの運動への支持を鮮明に打ち出したハイデガーのフライブルク大学学長講演のなかの言葉です。ときどき、ナチスを支持したハイデガーを馬鹿にする人に会ったり、またそういう言説を読みます。けれども、「我々は我々自身を欲する」という生き方はすべての人に当てはまるのではないでしょうか。私たちはだれでも、ナチスほどひどいことはしていないと思う。けれども、腹の中は一緒かもしれない。いやナチスドイツを貶めることで、自分の国の義を崇め奉ったりする人もいる。どの国にもいる。結局「我々は我々自身を欲する」という生き方をし、それを肯定している。それを指摘すれば、それ以外の生き方があるのか。何が悪いか!と怒りだすかもしれません。
 繰り返し思います。ただ神の御子だけが、徹底的に貧しくなられた。なることができたのだと。そして、自分の命を捨てて全人類の罪を背負ってくださった。あなたの罪を赦すから、自分を捨てて神様の下に来なさいと招いてくださったのです。血まみれになって十字架の上で腕を広げてそう招いてくださった。
 私たちは主の祈りを祈ります。御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく地にもなさせたまえ。イエス様の支配のあるところ、天の国は来たのです。それがマタイ福音書のメッセージです。復活したあと、イエス様はおっしゃいます。マタイ福音書の末尾です。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:18-20)
 イエス様の戒めが守られるところ、そこにはこの地上にあっても、天の国はきているのです。そしてこの天と地の一切の権能を父なる神様から授かっているであるイエス様は、この地に天の国が広がるようにすべての民を弟子にするようにお命じになったのです。
 イエス様が貧しくなられたことと比べ、私たちはなんと富める者であったでしょう。命を捨てているつもりでも、いや実際に捨てても、最後までどこかで自分を守っています。神の霊などなにも持ち合わせていない罪人です。神の霊において実に貧しい者でしたけれども、その貧しさを認めなかったのです。だから乞食のように霊を求めることができませんでした。俺は俺でやるよと勝手に生きようとしていました。今なおそのように生きようとしているかもしれません。けれどもイエス様の和解を受け入れた私たちはそれが罪であることを知っています。そして確かに教会において、自分を罪人であったと知った貧しい者たちが祝福を受けています。確かに、教会とは、悲しむ人々が慰められ、へりくだった人こそそのメンバーシップを継ぎ、義に飢え渇く者は満たされ、憐み深い者が憐みを受け、心の清い者が神を見て、平和を作るものが神の子と呼ばれる場所でなければなりません。イエス・キリストが教会の頭だからです。教会において、罪が赦され和解がもたらされます。そのような真の平和をもたらされた神の子イエス・キリストが崇められます。イエス・キリストを主とすることで神の子とされ、その福音に生き福音を伝える人々が集っています。そして福音のために、イエス・キリストの弟子として生きるために、迫害されることを恐れないのです。私たちに与えられたほんとうの命とは、あの十字架につけられたイエス・キリストの愛によって生かされ、その愛を生きることだと知らされているからです。そして、イエス様が復活されたように、死を超えてイエス様と父なる神様がともにいることを知っているからです。
 私たちは、イエス様の弟子である教会がどのような共同体なのかを証しするように召されています。赦され、天の支配に移されたものとして、すべての罪人への祝福、イエス様の十字架の出来事を伝えるべく召されています。今、天の支配と申しましたが、天の国は、単に神の支配というだけでは尽くせない意味を持っています。神様との垂直的な関係だけではない。神様と関係を持った個人の救いで終わらない。横の連帯を生むものです。天の国は、この地すべてを覆って広がり、神様の愛の下に人々の間にほんとうの愛と平和を作り出すものなのです。そこに神さまの祝福が鳴り響いています。