2026年10月18日 主日礼拝説教「神の言葉を実現するため」東野 尚志牧師
申命記 第4章1~14節
マタイによる福音書 第5章17~20節
私がこの場所に立たせていただくのは、ほぼ1ヶ月振りということになります。前回は9月20日の日曜日、この説教壇に立って、マタイによる福音書第5章の13節から16節の御言葉を説きました。それ以来、4週間振りとなります。次の週の9月27日は、年に一度の聖学院教会との講壇交換の日でしたので、聖学院教会の赤田直樹牧師が司式・説教のすべてを担当してくださいました。先週の日曜日、10月11日は、神学校日礼拝として、東京神学大学大学院2年生の梅津重信神学生を、説教者としてお迎えしました。本来ならば、その間の10月4日は、私が司式・説教者として、ここに立つはずでした。ところが、金曜日から高い熱が出て、土曜日に近くのクリニックに行くと、インフルエンザAの診断でした。それから熱も下がらず、急遽、翌日の礼拝の務めを、ひかり牧師に交代してもらうことになったのです。
3週続けて、日曜日に説教をしないというのは、今から7年前、滝野川教会の主任牧師として着任して以来、初めてのことではなかったかと思います。外部から説教者をお招きするときも、なるべく2週続けて主任牧師が抜けることにならないように、工夫しながら分担して来ました。今回は、その間の日曜日に交代せざるを得ず、3週続けて、説教壇から離れてしまうことになりました。多くの方に心配をおかけして、また多くの方が祈ってくださいました。今日、こうしてまた、ここに立たせていただくことを、本当に感謝しております。
2週間前の日曜日、ひかり牧師にとっては、突然、前日になっての交代であったわけですけれど、翌日の日曜日には、心に響くとても良い説教をしてくれました。私は自分の部屋に引きこもって、ほとんど横になったまま、オンライン配信の礼拝を聴いていて、御言葉によって深く慰められました。牧師でありながら、説教壇に立つことができない。その挫折感と惨めさ、また自らのふがいなさに打ちのめされていたところで、主の慈しみが、そのどん底の私をなおも支えていてくださる、御言葉が心に響きました。まことに勝手ながら、ああ、この御言葉を聴くために、主が私の傲慢を打ち砕き、病の中に置いてくださった。そんなふうにさえ思いました。
説教の中で、御言葉との出会いは、一期一会だと語られました。もしかしたら、今日、この日の礼拝が地上で連なる最後の礼拝になる方がおられるかもしれません。それは、集まった会衆の皆さんだけではありません。御言葉を語る牧師にとっても、これが地上での最後の説教になるかもしれません。それは、誰にも分かりません。イギリスのピューリタンの牧師であったリチャード・バクスターは、病を負う身で説教壇に立っていました。いつも、これが最後の説教になるかもしれないという思いをもって説教した、と伝えられています。今日はうまくいかなかったから、来週は頑張ろう。そう思っても、次はもうないかも知れない。そういう厳しさを忘れてはならないのだと思います。私たちが、今日、何のために礼拝をしているのか。この礼拝は、私たちにとって、どういう意味があるのか。改めて、そのことを深く噛みしめたいと思うのです。
何のために、ということを申しました。本日、私たちに与えられた福音書の言葉は、主イエスの側から、何のためか、その意味を語ってくださったところだと言っても良いと思います。主イエスの言葉を、改めて、しっかり聴きたいと思います。主は言われます。「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(5章17節)。「私が来たのは」と主イエスは語られます。主イエスが地上に来られた、その意味と目的とが、はっきりと告げられています。日本語では省略されておりますけれども、実は、聖書のもとの言葉では、「私は来た」という言葉が2回繰り返されています。それだけ大事なこととして語られたのだと思います。主イエスは来られたのです。私たちのところに来られたのです。父なる神さまの御心に従って、その御心を地上においても実現するために、主は来られたのです。礼拝というのは、私たちのところにまで来られた、生ける主と出会う場所です。私たちは主の御前に共に集いました。主は今日も、私たちに親しく語りかけてくださいます。「私は来た。あなたのところに来た」。主はそう言われるのです。
この主イエスの言葉を、聖書のもとの言葉で読むと、ちょっとギクリといたします。いきなり強い否定の言葉から始まっているのです。「決して思うな」。主イエスは、ご自分が世に来られたことについて語るとき、否定の命令から始めなければならなりませんでした。「決して思うな」と厳しく命じられたからには、逆にそのように思ってしまう人たちが多かった、ということではないでしょうか。主イエスが世に来られた意味について、その目的について、誤解をする者たちが多かったのです。とりわけマタイがこの福音書を書いて、主イエスのお言葉をまとめようとしたときに、誤解が広まっていたということかもしれません。その誤解をうち消すために、マタイはこの主イエスのお言葉を大切に記録したのです。一体どのような誤解があったのでしょうか。
主は言われます。「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。主イエスが来られたことによって、旧約聖書の厳しい戒めや掟は乗り越えられた。主イエスによって古い律法を告げる旧約は廃止されて、新約の時代になった。そのように考えた者たちが多かったのです。そういう思いは、私たちの中にもあるのではないでしょうか。パウロが言うように、私たちは、律法の行いによって救われるのではなく、信仰によって救われるのです。キリストが来られたのだから、律法はもう無用になった。私たちはキリストの福音によって救われたのだから、律法からは自由になった。そのように考えるのです。そして、旧約聖書の律法は、もう詳しく知る必要のない、過ぎ去った昔の物語のように思ってしまうのです。
実際、聖書を初めから通読しようという志を立てた人たちがしばしばつまずくのは、旧約聖書の律法の中の細かい法令集のようなところに差し掛かったときではないかと思います。創世記、出エジプト記、このあたりは、物語としても面白くて読み進むことができます。ドラマティックな出来事の連続です。ところが、出エジプト記の後半から雰囲気が変わり、レビ記に進むと決定的です。細かい律法の規定が綴られます。献げ物についての規定、清いものと汚れたものについて、あるいは、汚れてしまったものが清めの儀式として何をするべきかなど、今日の私たちの生活とはおよそ関わりがないかのように思われる細かい規定が連ねられているのです。煩わしいとさえ感じるような細かい規則の連続です。志を立てて聖書を最初から読んできた人たちも、レビ記まで来ると、急に話がつまらなくなって聖書を閉じてしまいます。あるいは、斜め読みに飛ばして、先へ進むのです。神の民イスラエルに与えられた一つひとつ細かい律法の規定は、私たちと関わりのないもののように感じてしまう。自分に関わりないと思えば、一気に興味は失せてしまいます。主イエスが来られたことで、旧約の律法の規程は無効になった。もう律法は読まなくても良い。そう考えることができるなら、どんなに気が楽になるでしょうか。そういう私たちの願いに逆らうかのように、主イエスの言葉は響くのです。
確かに、聖書の中には、さまざまな主イエスの言葉が収められています。同じマタイの福音書の中に、こういう言葉もあるのです。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(11章28節)。これはよく分かります。心に響きます。すっと気持ちが軽くなります。この箇所をご自分の愛唱聖句としてあげる方は多いのではないでしょうか。それに対して、今日の箇所のような厳格な主イエスの言葉を、愛唱聖句とする方は少ないのではないかと思います。けれども、私たちが御言葉を聞くということは、自分に都合の良いところ、耳に心地よいところだけをつまみ食いするようであってはならないのだと思います。御言葉は私たちをうち砕き、また癒します。裁き、また赦すのです。
第5章の18節で、主は言われます。「よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない」。「よく言っておく」と訳されているところは、原文では「アーメン、あなたがたに言う」と書かれています。主イエスが、特に大事なことをお語りになるときの言い方です。「よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない」。「一点」と訳されているのは、ヘブライ語の文字の中で一番小さなものを表します。「一画」というのは、似通った文字を区別したり、意味を明確にしたりするために装飾的に付けられたしるしを指します。そういった細かい文字やしるしでさえも、決して失われることはないと言われるのです。あたかも律法は永遠不滅であると宣言するような主イエスの言葉を前にして、私たちはますます戸惑いを感じてしまうのではないでしょうか。
なぜなら、主イエスはむしろ、律法に対して、とても自由にまた大胆に振る舞われた方だったということを私たちは知らされているからです。食事の前に手を洗うという規定を無視して、律法学者たちにとがめられたことがあります。安息日に仕事をしてはならないと定められていたにもかかわらず、お腹をすかせた弟子たちが麦の穂を摘んで食べることを許されました。あるいは、ご自身も、安息日に助けを求める人の病を癒されました。ファリサイ派の人たちが主イエスの律法違反をとがめたとき、主は言われました。「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(マルコ2章27~28節)。大胆に、安息日の律法を踏み越えられたのです。その主イエスが、ここではまるで、ファリサイ派の人たちよりも厳格な律法主義者になってしまわれたかのように思えてしまいます。さらに、その後の20節を読むと、絶望的な響きさえあります。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(20節)。天の国の扉は、私たちに対して堅く閉ざされてしまうのでしょうか。
ここでどうしても振り返って考えて見なければならないことがあります。主イエスはどうして、それほどまでに律法にこだわっておられるのでしょうか。それは、私たちが「律法」という言葉で何を理解しているかを問われることでもあると思います。ウィリアム・バークレーという英国の優れた聖書学者がいます。この人は、ユダヤ人が「律法」と言うとき、大きく分けて四つの次元が考えられると説明しています。第一は、端的に「十戒」を指す場合。第二は、旧約聖書の最初の五つの書物。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のいわゆるモーセ五書を指す場合、第三は、律法と預言者という言い方で、旧約聖書全体を指す場合の用い方、そして、第四として、口伝律法、つまり律法学者の律法をあげるのです。一番狭い意味では、十戒です。しかし次第に大原則としての十戒の展開として、あるいは、具体的な生活の場面ごとに適用するために、さまざまな細かい規定が定められるようになりました。
例えば、先ほどの安息日律法について言えば、十戒の第四戒としてこう記されます。「安息日を覚えて、これを聖別しなさい。六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない」(出エジプト20章8~10節)。この戒めを生活の中で守ろうとするとき、ユダヤ人はすぐに問うのです。では、安息日にしてはならない仕事とは何であろうか。どのくらいの重さのものまでは持ち上げても良いのか。どのくらいの距離なら歩いても仕事にならないか。料理は許されるか。そうしてどんどん細かい規則を作っていって、主イエスの時代には、そのような細則の数が千を超えたとも言われます。とても普通の人に覚えられる数ではありません。そこで律法の専門家としての律法学者が登場して、色んな場合に律法の戒めを適用して見せたのです。これがバークレーの言う、律法学者の律法でした。
けれども主イエスがなさったのは、学者たちの行き方とは正反対の方向でした。主イエスの評判が高くなるのを快く思わない者たちのひとり、ある律法の専門家が主イエスを試そうとして尋ねました。「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか」。主イエスは答えられました。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ」(マタイ22章37~40節)。主イエスは、ここで、大事な戒めとそうでない戒めとを分けられたのではありません。そうではなくて、むしろ、全ての律法と預言者とがそれに基づいているような要となる戒めを掲げられたのです。誤解を恐れずに言えば、全ての律法を要約して二つの戒めにまとめられたのです。
律法は、たとえ何百、何千の掟があったとしても、突き詰めて言えば、神を愛する愛と隣人を愛する愛を求めているのだと、主は言われます。律法が求めるのは、神との正しい関係であり、神との関わりに基づく、隣人との正しい関係である。主イエスは律法の急所を押さえられたのです。律法を行うということは、律法学者が求めたように、ただ細かい規定を文字通りに守りさえすればよいというのではなくて、戒めを与えてくださった神さまとの関わりに生きることです。十戒の初めに、はっきりと記されています。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない・・・」(出エジプト20章2~3節)。神はご自身の民とされた者たちに対して、神の民として生きる道をお示しになりました。神との関わりの中で正しく生きる道を求められたのです。
神との関係が問題なのだとすると、19節の言葉もよく分かるのではないでしょうか。主は言われます。「だから、これらの最も小さな戒めを一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれる。しかし、これを守り、また、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」。「天の国で、呼ばれる」と言われています。誰に呼ばれるのでしょうか。神さまがそう呼んでくださるのです。天の国というのは、神さまが支配されるところです。神さまの戒めを、小さいからと言って軽んじる者は、戒めを与えてくださった神ごさま自身を軽んじることになります。そのような者は、神さまのご支配のもとでは、小さな者と呼ばれるのです。しかし、たとえほんの小さな戒めであっても、神さまから頂いた愛の戒めとして重んじて、御心に従って生きようとする者を、神は大いなる者と呼んでくださいます。私たちの律法の守り方によって、天国での地位が左右されるということを言っているのではありません。ここでも、神さまとの関係が大事です。神さまとの関係を抜きにして、行いによって自動的に大小の判定がなされるわけではないのです。生ける神さまは、私たちの真実を求めておられます。私たちをご自分の民として選び、私たちの名を呼んで、御前に集めてくださった方が、私たちに愛の真実を求めておられるのです。律法を重んじるということは、神を重んじるということだと言われるのです。
この響きの中で20節を読むならば、ここに「義」という言葉が出てきた意味も分かります。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。「義」という言葉は、しばしば「正しい」と訳されます。それで誤解を生じるのです。私たちの正しい行いが律法学者やファリサイ派の人々の正しい行いに優っていなければならないとしたら、いったい望みがあるのでしょうか。改めて、義とは何かということが問われます。私たちが考える正しさではなくて、神に喜ばれ、神が正しいと思われるような「義」とは何かということが問われます。私たち人間が自分で正しいと思う「義」ではなくて、神が正しいと認めてくださるような「義」を得ることが大事なのです。だからこそ、主イエスは、最初に、「私は来た」ということを強調されたのではないでしょうか。私たちに対して、厳しい義の要求をしておられる方は、私たちのところに来られた方です。十字架にかかって、死んでよみがえられた方です。自分の罪を自分ではどうすることもできない私たちのために、主イエスは、私たちの罪をすべて背負って、身代わりとなり、ご自身の命を捨てて、私たちを滅びから救ってくださいました。主イエスが私たちを「義」としてくださったのです。この主イエスの愛、神の赦しに答えて、神を愛し、隣人を愛する者として生きる者となるとき、愛の戒めが私たちの間に実を結びます。主イエスはそのために、私たちのところに来てくださったのです。
主イエスによって、戒めの言葉の原点である十戒は、私たちの罪を暴くだけではなく、罪赦された者の生きる道を指し示す道しるべとなりました。主イエスによる赦しと救いにあずかることで、愛に生きる道が開かれます。主イエスは、律法学者のように、旧約律法をただ守るべき戒めの言葉として繰り返すのではありません。旧約律法に取って変わる新しい律法を作ろうとされたのでもありません。旧約律法の中に現わされた神さまの御心を満たし、律法を完成するために来てくださいました。神の言葉を実現するために、主は私たちのところにまで来てくださったのです。この主イエスと出会うことによって、私たちは、罪の支配から解放されて義とされ、神さまの愛の支配へと移されて、愛に生きる者とされます。この礼拝において、御言葉と聖餐の恵みを通して、主イエス・キリストと新しく出会うことができますように。私たちのところにまで来てくださった主に、心からの讃美と感謝を献げたいと思います。

