2026年6月7日 主日礼拝(伝道月間第1週)説教「見つけた喜び、見つけられた喜び」 東野 ひかり牧師

ルカによる福音書 第15章1~7節
エゼキエル書 第34章11~16節

 ただ今は、こどもさんびか72番「ちいさいひつじが」をご一緒に歌いました。
「1.小さいひつじが いえをはなれ ある日とおくへ あそびにいき 花さく野はらのおもしろさに かえるみちさえ わすれました。 2.けれどもやがて よるになると あたりはくらく さびしくなり うちがこいしく ひつじはいま 声もかなしく ないています。 3.なさけのふかい ひつじかいは このこひつじの あとをたずね とおくのやまやま たにそこまで まいごのひつじを さがしました。 4.とうとうやさしい ひつじかいは まいごのひつじを みつけました だかれてかえる このひつじは よろこばしさに おどりました。」
 今日読みましたルカによる福音書第15章の「「見失った羊」のたとえ」、またマタイによる福音書第18章10~14節に記されています「「迷い出た羊」のたとえ」を基にしたこどもさんびかです。私は子どもの頃、このさんびかが一番好きでした。イエスさまがしてくださった譬え話を、想像の翼を広く広げながら、やさしい言葉で、生き生きと語り直して歌いますこの歌は、今でも多くの子どもたちに、また大人たちにも、愛されている歌です。

 イエスさまは、私たちの想像力を豊かに掻き立てるような譬え話をいくつもしてくださいました。イエスさまは譬え話の名人でした。ルカによる福音書第15章は、そのイエスさまの譬え話の中でも、もっともよく知られている譬え話が記されているところです。ルカによる福音書第15章には、少し太い字の見出しが三つ、書かれてあります。「「見失った羊」のたとえ」に続いて、8~10節には「「無くした銀貨」のたとえ」、そして11~32節には「「いなくなった息子」のたとえ」が記されています。三つ目の一番長い譬え話は、「放蕩息子の譬え」とも呼ばれる大変有名なものです。15章のこの三つの譬え話は、共通の主題を持ちます。特に羊の譬えと、続く銀貨の譬えはワンセットの譬え話となっています。この第15章は、ルカによる福音書のひとつの頂点をなすとも言われます。
 この三つの譬えの見出しはそれぞれの譬え話の中にある言葉から取られていますが、「見失った」「無くした」「いなくなった」という言葉は、実はもとの言葉ではすべて同じ言葉です。「失った、失われた」というのが直訳です。新約聖書は、もとはギリシア語で書かれていますけれど、もとのギリシア語のこの言葉は、実は、とても強い意味を持つ言葉なのです。「まったく無いものとなる」「滅びる」という、それほどの意味をも持つのです。先ほどのこどもさんびかに、「小さいひつじがいえをはなれ ある日とおくへあそびにいき 花さく野はらのおもしろさに かえるみちさえわすれました」とありましたけれども、一匹の羊が羊飼いのもとから遠く離れ、迷子になり、帰る道がわからなくなる、帰る道を忘れてしまう、それはその羊が、本来いるべきところ、羊飼いのもとから「失われた」ということになります。羊飼いからすればその羊を「見失った」ということになります。そしてそのように、羊が本来のいるべきところ、羊飼いのところ、それはすなわち神さまのもと、ということですけれど、そこから失われたなら、全く無いものとなる、滅んでしまう、そういうことになるのだと、このイエスさまの譬えは示しているのです。

 「小さいひつじ」のさんびかを歌いながら、皆さまの中には「小さいひつじ」と自分が重なるような思いで歌われた方があったかもしれません。自分はいつの間にか羊飼いのもとから、イエスさまのもとから、神さまのもとから、遠く離れてしまった、そんなふうに思われた方もあったかもしれません。「かえるみちさえ わすれました」という歌詞を、それこそ心悲しく歌われた方もあったかもしれません。また、自分の来し方を振り返って、洗礼を受ける前の自分はまさしくこの迷子の羊だった、でも今はこの羊飼いに見つけ出されてここにいると、よろこばしさに躍る思いで、嬉しくこの歌を歌われた方もおられたでしょう。他方、自分は教会から離れることなく礼拝を大切にしているけれども、礼拝堂に座っていても自分の心は神さまからずいぶん遠いところにある、そんな思いを抱かれた方もあったかもしれません。私自身もかつてそんな思いで礼拝に出ていたことがあります。羊飼いから離れていないようでいて、迷子になっているということもあるのです。また、学校の課題で礼拝に出席しておられる生徒さんたちの中には、そもそも自分は神さまのことなんて信じないし、信じようとも思わない、神さまなんて信じなくたって、自分の力と努力で生きて行く。宗教にすがって生きていくなんてしたくない。そんな気持ちでおられる方もあるかもしれません。
 考えてみますと、私たちというのは皆、神さまからご覧になったら、「失われたもの」である、あるいは、かつて「失われたもの」であったのだと思わされます。だからこそイエスさまは、この譬えで言われるのです。羊飼いは、そのような「失われたもの」を見つけ出すまで捜す、そういう羊飼いだと。そしてこの譬えの羊飼いは、まさにイエスさまご自身のことです。「失われたものを捜して見つけ出し、父なる神のもとに連れ帰る」それがイエスさまという救い主なのです。

 100匹の羊を持つ羊飼いには、どの羊もみな大切な自分の羊です。そのうちの一匹がいなくなったら、一匹を見失ってしまったら、99匹を荒れ野に残しても、見つけ出すまで捜し歩きます。イエスさまはこの譬えで、いなくなった羊が「小さい」こひつじだったとはおっしゃっていません。小さいひつじ、かわいい子どもの羊だったから、羊飼いは必死で捜し歩いた、ということではないのです。いなくなった羊はお年寄りの羊だったかもしれない。イエスさまは、この羊に特別な何かがあったから、どうしても捜し出さなければならなかった、ということは何も語っておられません。この羊は、特に良い羊だったわけでも、特に弱い羊だったわけでもないのです。ただ、羊飼いの羊、羊飼いのものであった、というだけなのです。羊飼いにとっては、自分の羊はどれも、大切なかけがえのない羊、他に替えのきかない一匹の羊なのです。100匹のどの羊がいなくなっても、羊飼いは同じように見つけ出すまで捜したということです。どの羊もいなくなってはならない、無いものになってはならない、滅びてはならないのです。だから羊飼いは、この一匹に向かって行きます。どこまでも捜しに行きます。見つけ出すまで捜すのです。この羊飼いはそういう羊飼いです。羊は、羊飼いにとって、いなくなってはならない存在なのです。
 この15章の三つの譬えはみな、イエスさまという方がどういう方であるのか、父なる神さまがどういう方であるのか、そしてその神さまとのかかわりにおいて、私たちが、私が、あなたが、どういう存在であるのかということを、イエスさまご自身がお語りくださった、とても大切な、宝物のような譬え話です。

 先月の5月、この礼拝堂に聖学院中学校の1年生の皆さんをお迎えしました。教会体験という授業の一環で、先生方合わせて190名ほどの皆さんをこの礼拝堂にお迎えしました。今年で3回目か4回目くらいになると思います。今日ここにおられる皆さんの中にも、教会体験で滝野川教会に来たという人がいるかもしれません。
 教会体験では質問コーナーというのがありまして、たくさんの質問が出るのですけれど、一昨年でしたか、あの講壇の聖書、金の縁取りがされている聖書が目についたのでしょう、「あの聖書は、どうして金ぴかなのですか」という質問が出ました。ちょうど講壇用の聖書が納品されたばかりの新品でありましたときで、ほんとうに光り輝いていたのです。皆さまは、どうしてだと思われるでしょう。これは私の個人的見解ですが、聖書を金で縁取るのは、この聖書に書かれている言葉がとても大切な、金のように大切な宝のようなものだからだと思うのです。イエスさまの譬え話、イエスさまのお話、聖書の言葉、それは、私たちにとって、すべての人にとって、ほんとうに大切な宝物、金色に輝くすばらしいもの、そうではないかと思うのです。

 これももうずいぶん前のことですけれど、富岡幸一郎さんというキリスト者の文芸評論家の方が、『聖書をひらく』という本をお書きになりました。その中で富岡さんは、「聖書とは何か」ということを語りながら、「聖書は鏡だ」と書いておられました。聖書は私たちの本当の姿を映し出す鏡だと言うのです。私たちは、自分のことは自分が一番よく分かっている、知っている、と思います。けれどそう言いながらも、自分のことが自分でもよく分からない、ということも知っていると思います。私は還暦になりましたが、いまだに自分のことがよく分からない、自分を見失っている、と思うことがあります。そういう中で「聖書をひらき」ます。するとそこには、神さまという方とのかかわりの中に見える「私」の姿が映っているのです。
 今、皆さんはこうして聖書をひらいて、聖書の話を聞いておられます。教会の礼拝で聖書の話を聞くとき、そこでしばしば起こることは、いつも自分の目で見ているのとは違う、自分が思っていたのとは異なる、自分でも知らなかった自分の姿が見えてくる、ということです。それは神さまというお方が、イエスさまというお方が、私のこと、私たちのことを、どのようにご覧になっているのかを見せていただく、という経験でもあります。そしてそこに、自分でも知らなかった本質的な、本来の、自分の姿というものを知らされる。そういうことが起こるのです。それは、新しい自分との出会い、というような経験です。

 先ほど歌いました小さいひつじのさんびかは、羊飼いのもとから遠く離れてしまって迷子になったこひつじの寂しさ、不安、悲しさを歌っていました。それは私たちの心に強く刺さります。そして、そのこひつじの後を追って「とおくのやまやま たにそこまで」捜し歩いて、とうとう迷子の羊を見つけた羊飼いの姿は、私たちに深い安心と、喜びを与えてくれます。この歌は、最後の4節で、見つけてもらって、そして羊飼いの腕に「だかれてかえる」こひつじの喜びを歌います。私たちにも、見つけてもらったこひつじが、どんなに嬉しかったか、どんなに安心したか、とてもよく分かると思います。子どもの頃、私がこの歌を大好きだった理由は、「なさけのふかいひつじかい」が、とうとうまいごのひつじを見つけてくれて、そして、聖書の言葉で言えば「その羊を担いで」、家に連れて帰って来てくれた、その安心感と、抱かれて帰る羊のうれしさがよく分かったのです。心から喜んで、嬉しい気持ちで「よろこばしさにおどりました」と歌っていました。この歌は、私たちの気持ちを素直に歌ってくれています。
 けれど、このさんびかを愛しながら、大切に思いながらも、他方で、このさんびかはイエスさまがお語りになった譬え話が伝えている、最も大切なことを歌っていない、ということは、注意しておかなければならないのです。確かにこのさんびかは、羊の喜びを歌っていますけれど、見つけ出した羊飼いのほうの喜びは、歌っていないのです。けれども、イエスさまが語ってくださった譬え話の、その中心にありますのは、見つけてもらった羊の喜びよりも、見失った一匹を見つけ出した羊飼いの「喜び」なのです。その喜びを、みな一緒に喜んでほしいと言われているのです。最後の7節でイエスさまは言っておられます。「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある。」」 見失った羊、いなくなった羊が見つかった、無くした銀貨が見つかった、かけがえのない存在が、本来居るべきところに、父なる神さまのところに戻って来た、そのとき天に、神さまに、大きな大きな喜びがある。羊飼いの喜び、神さまの喜び、天の喜び。それこそが、イエスさまの譬えが何よりも強調して伝えていることです。神さまは、それほどまでに、失われたものを見つけ出すこと、取り戻すことを、大きな喜びとなさる、そういう神さまなのだと、イエスさまは教えていてくださるのです。そして私たち一人ひとりは皆、誰もが、神さまにとってイエスさまにとって、決していなくなってはならないかけがえのない一匹の羊、神さまのもの、イエスさまの羊なのだと言っていてくださるのです。私が、あなたが、神さまのもとからいなくなっていれば、イエスさまは見つけるまで捜し歩く。命がけで捜し歩く。そして見つけたら、イエスさまのほうが、天の父なる神さまのほうが、溢れんばかりに喜ぶ。私たちはそういうかけがえのない神さまのもの、イエスさまの羊なのです。

 一昨年、私たちの教会が創立120年を迎えました年、創立記念礼拝にお迎えしました近藤勝彦先生が、今日の箇所についてなさった説教があります。近藤先生は、その説教の冒頭でこういう意味のことを言っておられます。少し言葉を補いながらご紹介します。「今日のこの譬えによって、主イエスは、神について語っている。しかしここで、(私たちに対して)〈神に興味を持ち、神に心を向けよ〉とは語っているわけではない。少なくともここでは、私たちの関心を神に向けること、私たちの心を神に向けること、そのことが主題ではない。逆に、神のほうが、あなたに興味を持っていると語られたのである。一匹の羊は見失われたままであって、自分のほうからは少しも羊飼いを捜しはしない。(羊が羊飼いを捜すことは、求められていない。)人間は神から離れている。神に対する関心を持っていない。あるいはかつては神に関心を持っていたが、今は無くしてしまっている。しかし、神は、その人に関心を向けている。神はその人に興味を持っている。そのことを、主イエスは語っておられる。」 神さまが、どんなにいなくなった「一匹」の羊に、私に、あなたに、心を傾けておられるか、関心をもっておられるか、興味を持っておられるか、それこそがこの譬え話の主題だというのです。
 同じようなことを別の説教者も語ります。この譬え話は「天を覗き見ることが許されているような、まことにまれな、聖書の言葉だ」と言うのです。「この譬えによって、天を覗き見るとき、そこで、聞くのは、全く思いがけないことに、その天で、私たちに関心が注がれているということだ」と言うのです。「この地上に生きている私たちのために」、神を忘れ、神から離れて迷子になり、声も悲しく泣いているような、そんな私たちのために、「天で心を煩わせている方がおられる」、「しかもそれも、私たちをひとまとめにして、というのではなく、私たちの一人ひとり、「一匹の羊」に心が向けられている」。この譬えで、主イエスが語っていてくださるのは、天で、思いがけなく私のことが話題になっている、問題になっている、この私一人のことに、関心が注がれている、その「天の中身」を、主イエスは語っていてくださるのだと言うのです。この私、そしてあなた、という存在が、神さまにとって、どれほど大切であるか。私が、あなたが、本来そこにいなければならないところ、羊飼いのもとから、神さまのもとから、いなくなってしまったら、神さまはどんなに心配して、心煩わせて、あなたを捜すことか。そしてあなたを見つけたら、あなたが戻って来たなら、あなたのために神さまがどれほど喜ぶことか。そういう話をイエスさまは語ってくださったのです。

 ある聖書学者は、こういうことを言います。「百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば」というのは、この羊飼いが、夕方、羊の囲いに羊たちを連れ戻って来たとき、その一匹一匹を数えたことを意味する、というのです。ヨハネによる福音書の第10章でも、主イエスは、羊飼いの話をしてくださっています。羊飼いは、羊の囲いの中から牧草地へと羊たちを連れ出してゆくとき、「自分の羊の名を呼んで連れ出す」とイエスさまは言われました。そういう羊飼いは帰って来たときも一匹一匹、名前を呼んで数える、そして一匹がいないことに気づいた、この譬えはそういう状況を言っているのだと、その聖書学者は言うのです。そして、「九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し」に出たのだと言うのです。
 私たちは、この譬えを聞きますとき、しばしば荒れ野に置き去りにされた99匹の心配をします。皆さんの中にも残された99匹はどうなるんだろうと思った人があるでしょう。荒れ野に置き去りにするなんて、99匹のほうはどうなってもよいというのかと、そんなふうに考えてしまうのです。けれどこの羊飼いは、「良い羊飼い」なのです。ヨハネ福音書(10:11-14)で、主イエスは言われます。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。…彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。」 99匹は、羊飼いが自分たちのことを忘れていないことを知っています。自分たちも一匹一匹、名前を呼ばれていることを知っています。99匹の中の誰がいなくなっても、羊飼いは同じように、命がけで捜しに出ることを知っています。いなくなった一匹の羊を、見つけ出すまで捜し歩く、そういう羊飼いだからこそ、残された羊たちは安心して待っているのです。そして、羊飼いが見失った一匹を見つけ出して、肩に担いで連れ帰って来たとき、待っていた99匹も一緒に喜ぼう、一緒に喜びの食卓を囲もうと、イエスさまは、そういう話をなさったのです。

 残された99匹というのは、7節によれば、「悔い改める必要のない正しい人」ということになります。イエスさまがこの譬えを語り始められたきっかけは、ファリサイ派の人たちと律法学者たちのイエスさまに対する批判でした。イエスさまが、徴税人や罪人たちを受け入れて一緒に食事をしていることに、正しい人たち・ファリサイ派の人々や律法学者たちが「文句を言った」(2節)のです。ローマ帝国に納める税金を集める徴税人たちは、権力をかさに着て、決められた額以上の税金を集めて私腹を肥やしていました。そういう徴税人たちは「罪人たちと同じ」に見られ、ユダヤ人たちから嫌われつまはじきにされていました。「罪人たち」というのは、文字通り罪を犯した人たちです。神の律法にも社会道徳にも反する行為をした人たちです。そういう人たちと一緒に食事をする、つまり彼らを受け入れて仲間になる、それは、ユダヤ人として神の律法をきちんと守り、正しい生活を自らに課していたファリサイ派の人たち、律法学者たちからすれば、あり得ない許しがたいことでした。ですからイエスさまに対して、「こいつは、あんなやつらと一緒に食事をしている」と言って、イエスさまを非難したのです。そこでイエスさまがなさったのがこの譬えでした。
 いなくなった一匹は、徴税人や罪人たちです。その人たちが悔い改めて神さまのもとに帰って来た。羊飼いイエスさまは、いなくなった罪人を、一人ひとり見つけ出して担いで帰って来た。彼らも、神さまにとってはかけがえのない大切な羊なのだとイエスさまは話されたのです。この罪人のひとりのことを、神さまがどんなに興味を持って、関心を持っておられるか、そして、その人が神さまのもとに戻ってきたら、天に大きな喜びがあふれるのだ、あなたたちも一緒にこの喜びを喜んでくれと、イエスさまは言われたのです。

 99匹の残された正しい羊たちは、いなくなった一匹の羊のことを「なんて迷惑な、身勝手な奴だ」「勝手にいなくなったんだから放っておけばいい」そんなふうに思ってしまうのかもしれません。「なんで神さまは、あんな人のことを大事にするのか、放っておけばいいのに。」そう言いたくなる気持ちが、私たちにもわかるのではと思います。けれども、イエスさまは言われるのです。「あなたも私の大切な羊。いなくなった羊も、私の大切な羊。あなたも私が見つけた羊、彼らも私が見つけた羊だ。いなくなっていたのを捜し歩いて見つけたのだ、連れて帰って来たのだ、一緒に喜んでほしい」そう言われるのです。
 先ほどの近藤先生は、こういう言葉を続けて語られました。「教会とは何でしょうか。神に興味を持っている人たちが集まっているところでしょうか。しかしそれが、教会の第一にある特徴ではありません。ほんとうの教会の特徴は、逆です。神に興味を持っていただいた人たちが、集まっているのです。神を見つけた人ではない。神に捜され、見つけ出された人たちがここに集まっています。人間に必要なのは、私たちは神から関心を注がれているという発見ではないでしょうか。
 私たちは皆、神さまに興味を持っていただき、関心をそそいでいただき、捜しだされ、イエスさまの肩に担がれて、ここに集められている者たちなのです。「悔い改める」とは、私たち一人ひとりを必死に捜す羊飼いの声に、「私はここにいます」と答えることです。担ぎ上げようとするイエスさまの手を拒まないことです。担がれるままに、父なる神さまのみもとに帰って来ることです。そのとき、天に、私のための、あなたのための、喜びがあふれるのです。見つけてもらった羊の喜びは、天の喜びのこだま・エコーのようなものです。

 教会は、イエスさまの見つけた喜び、神さまの見つけた喜びと、私たちの見つけられた喜びが、こだまし合って、喜びが響きあうところです。これから祝う聖餐は、その喜びを共に喜ぶ、喜びの食卓です。天にあふれる大きな喜びを浴びながら、「イエスさま、私のことを見つけてくれて、ありがとう」と、躍り上がるような喜びをもって、互いに喜び合う食卓です。この喜びの食卓に共に与る方たちが新たに与えられるように、願っています。