2026年4月19日 主日礼拝説教「神の言葉によって生きる」 東野 尚志 牧師

申命記 第8章2~10節
マタイによる福音書 第4章1~11節

 新しい年度の歩みが始まって、3回目の日曜日となります。これまで3週にわたり、週報に2026年度の年間聖句を掲げて参りました。マタイによる福音書第18章19節と20節、主イエス・キリストの言葉です。「また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」。昨年度に続けて、教会とは何であり、教会は何をするのか、ということをさらに深く学んでいきたいと願い、この聖書の言葉を選びました。
 年間聖句を決めるまで、私なりにいろいろ考え、10箇所ほどの候補を挙げて、役員会に提示しました。そして、役員の方たちの率直な意見を求めました。ちょうど、昨年度の年間聖句が取られたペトロの手紙一の連続講解説教の終わりが近づいていた時期でもありましたので、次に何を読んでいくかについても、折りに触れて意見を求めていました。ある方から、次はぜひ、主イエスの言葉や業に直接触れられる、福音書の説き明かしを聞きたいというご要望を受けました。そのこともあって、年間聖句の候補に挙げた中から、マタイによる福音書18章の御言葉に絞りました。そして同時に、主の日の礼拝において、マタイによる福音書を読んでいくことにしました。ただし1章から区切りながら読んでいくと、18章まで辿り着くのはずいぶん先のことになってしまいます。そこで、今回は、マタイによる福音書の中から、少し自由に箇所を選びながら読んでいくことにしました。

 そういうわけで、マタイによる福音書の講解説教の第1回となる今日、第1章1節からではなくて、第4章の冒頭の箇所を読むことにしました。「主イエスの荒れ野の誘惑」の記事として、よく知られているところです。ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた主イエスは、それからすぐに、荒れ野に出て行かれました。「悪魔から試みを受けるため」と書かれています。「試み」と訳されている言葉が、新共同訳聖書では「誘惑」と訳されていました。わざわざ悪魔の誘惑を受けるために、主イエスは荒れ野へと出て行かれたというのです。どうして神の子である主イエスが、悪魔の誘惑を受けなければならなかったのでしょうか。「試み」と訳すと、そこには、「試練」あるいは「試験」というような意味合いも出て来ます。悪魔がまるで試験官であるかのように、神の御子を試みる、試すというのは、考えてみれば不思議なことだと思います。しかし同時に、主イエスでさえ、悪魔の試みに遭われたというのは、私たちにとって大きな慰めでもあるのではないでしょうか。

 私たちも、主イエスと同じように、洗礼を受けた後で、大きな誘惑にさらされることがあります。信仰が揺さぶられるのです。洗礼を受けて、神の子として新しく生まれたはずなのに、以前と何も変わっていない自分に気付いてがっかりすることがあります。洗礼によって主イエスと結び合わせられ、神の子とされたという恵みの事実が、ぐらつき始めます。洗礼を受けるのが早すぎたのではないかと迷い始めたりするのです。自分は本当に神さまに愛されているのか。自分の勝手な思い込みに過ぎなかったのではないか、そんな疑いが起こってきます。考えれば考えるほど、底なし沼に沈んで行きそうになる。悪魔は、そういう時を狙って近づいてくるのかも知れません。時には、自分自身に絶望する私たちの良心の声をさえ用いて、私たちを神さまから引き離そうとします。礼拝から遠ざけようとするのです。洗礼を受けてから始まる信仰の歩みは、まさに、荒れ野の試みの時と言って良いのかも知れません。吹けば飛ぶような私たちの頼りない信仰が揺さぶられ、試されるのです。
 悪魔が初めから悪魔らしい姿をとって登場すれば、私たちも警戒するに違いありません。けれども、悪魔はそれと気づかせないように、もっともらしい言葉で、合理的な装いを持って、私たちに近づいてきます。すぐには抵抗しがたいような魅力的な言葉で語りかけ、私たちを唆し、結果的には、私たちの心を神への信頼から遠ざけようとします。私たちを神さまから引き離そうとするのです。悪魔というのは、あのアダムとエバの時以来、関係を破壊する力を奮います。神さまと私たちとの関係を引き裂こうとします。人間同士の交わりを壊そうとします。私たちお互いの間の信頼を引き裂こうとするのです。

 そんなとき、私たちと同じように、悪魔の試みを受けられた主イエスのことを思い起こすことができるのは幸いなことであると思います。主イエスは、私たちと同じ人間の一人として、この地上にお生まれになり、荒れ野のようなこの世界の中で、悪魔の試みを受けられたのです。だからこそ、主イエスは、私たちの苦しみや悩みや惨めな思い、悔しさも情けなさも、すべてを受けとめてくださいます。ヘブライ人への手紙は語ります。「さて、私たちには、もろもろの天を通って来られた偉大な大祭司、神の子イエスがおられるのですから、信仰の告白をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4章14~16節)。神の御子が人となられ、この荒れ野のような世界を生きて、私たちと同じように試練に遭われたというのです。主イエスは、私たちの弱さを知っていてくださいます。そして、どのような時にも、私たちに寄り添ってくださいます。そのことが分かるだけで、私たちは大きな慰めと勇気を得るのではないでしょうか。
 確かに、主イエスが荒れ野で、悪魔の誘惑に遭われたことは、私たちひとりひとりの信仰者にとって、大きな意味をもつと思います。そのように聖書を読むことは、決して間違いではないと思います。その上で、聖書の言葉をただ自分の慰めのために、自分が慰められるためだけに読む、ということの中にもまた、大きな誘惑があるということをわきまえている必要があるのではないかと思います。御言葉の豊かな世界を、自分の慰めという小さな枠の中に納めようとしてはなりません。それを貧しいものにしてしまってはならないのだと思います。主イエスの荒れ野の誘惑が、私たちにとってどういう意味を持っているかということも、もちろん大事です。しかしまたそれと同時に、いやそれ以上に、荒れ野の誘惑が、主イエスご自身にとって、どのような意味があったのかということを考えてみる必要があると思うのです。

 聖書は語ります、「さて、イエスは悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」。偶然、荒れ野へ出ていったら、悪魔の試みを受けたというのではありません。むしろ神の霊の導きによって、はっきりと悪魔から試みられるという目的を持って、主イエスは荒れ野へ出て行かれたのです。直前の第3章の最後、主イエスの洗礼の場面に記されています。主イエスがヨハネから洗礼を受けて、水の中から上がられたとき、天が開けて、神の霊が鳩のようにご自分の上に下ってくるのを御覧になった、というのです。そのとき、主イエスは天からの声、すなわち、父なる神の声をお聞きになりました。「これは私の愛する子、私の心に適う者」。天からの声によって、はっきりと、父なる神の愛する子と呼ばれた方、その方が今、ご自身の救い主としての業を始めるにあたって、悪魔の誘惑に立ち向かわれるのです。この誘惑は主イエスの救い主としての業に関わることでした。主イエスがどういう意味で神の子であるのか、神の子として何をするのか、まさに、それを試すためであったと言ってよいのです。
 悪魔の誘惑は三度にわたって試みられました。第一の誘惑は、主イエスが荒れ野で四十日四十夜断食なさり、空腹を覚えられたときに襲いました。4章3節、「すると、試みる者が近づいて来てイエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』」。ここでは、相手が悪魔かどうかはまだ明かされていません。それはただ「試みる者」として近づいてきました。主イエスご自身、不毛の荒れ野で飢えておられたのですから、石をパンにするということは、最も手近な解決策のように思えます。しかし、ここで「神の子なら」と言われていることを聞き逃してはなりません。この言葉は、「神の子なのだから」と訳すこともできます。天からの声を聞いただろう。あなたは神の子なんだから、石をパンにすることなど、朝飯前でしょう。神さまにお願いしてパンを与えてもらうなんていうまわりくどいことをしないで、目の前で、直接この石に命じて、パンにすればよいではないか、そう言うのです。主イエスが神の子、すなわち神と等しいお方であることを巧みについて、父なる神とは無関係に、自分の力でやってごらんと言うのです。主イエスを誘惑する者は、まさに、悪魔に他なりません。父なる神と御子イエスとの間を引き裂こうとしているのです。

 それだけではありません。ただ主イエスご自身が断食の後に飢えて、パンを必要としておられたというだけではないのです。当時の社会の中には、貧しさの中で、パンを求める者たちが数多くいたに違いない。絶えず隣り合う国々に略奪され、支配され、それだけではなく、同じ国の中にさえ、豊かな者と貧しい者の間に大きな格差が生まれています。そういう社会の歪みの中で、空腹を抱えてパンを求める者たちが大勢いたのです。目に見える救い、すぐに体で味わえる救いを求める者たちは、少なくありませんでした。熱心党と呼ばれたグループが、民族解放を旗印に、今日で言うテロのような活動を繰り広げていたと言われます。彼らが求め、目指している救いと主イエスがもたらす救いはどう違うのか。主イエスはここではっきりと、その決意を明らかにされました。人々の要求に応えて、石をパンに変えるような仕方で救いをもたらすのではない、父なる神の御心に従う救いの道を選び取られました。それは、十字架へと続く道です。石をパンに変えることによってではなく、神の御子が、私たちの罪のために十字架にかかって死なれる。そのような痛ましい手続きを経て、すべての人を罪から救う贖いの道を拓こうとしておられるのです。
 主は答えて言われます。4節、「『人はパンだけで生きるものではなく 神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」。「人はパンだけで生きるものではない」。よく知られた言葉です。キリスト者の世界だけではなく、様々な文学作品に取り上げられて、広く知られるようになりました。それだけに、ずいぶん誤解されてきた言葉でもあると思います。唯物論を信奉する人々からは、非現実的な精神主義のように非難されたこともあります。しかし、主イエスは決して、パンと神の言葉を秤に掛けておられるのではありません。それは、主イエスがこの言葉を引いてこられた申命記の記事を読めば明らかです。先ほど合わせて朗読した申命記8章の記事に記されていました。確かに、荒れ野の旅路において、イスラエルの民は飢えました。けれども、神はご自身の民を、それまでだれも食べたことのない天からのマナで養われたのです。必要な肉の糧を与えられました。それと共に、私たちの心に豊かに響く言葉が記されています。「この四十年の間、あなたの着ていた服は擦り切れず、足は腫れなかった」。主なる神がいつも共にいて守っていてくださったことを証しするのです。確かにパンは大事です。しかし、私たちの肉体を養う食べ物が、本当に神の祝福によって、神から与えられるということは、もっと大事なのではないでしょうか。主イエスは、自ら道となって、神さまと私たちの間をつないでくださいました。私たちは、主イエスにおいて、神の言葉を、確かに聞くことができるようになったのです。

 続いて悪魔は、主イエスを一瞬のうちにエルサレムの都に連れて行き、神殿の端に立たせて言います、6節「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると 彼らはあなたを両手で支え あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてある」。詩編の第91編に記された言葉です。悪魔もまた、聖書の言葉を引用して、巧みに主イエスを唆すのです。世の終わりには、神殿において驚くべき御業がなされると信じられていました。言ってみれば、悪魔はここで、主イエスに分かりやすいパフォーマンスを求めているのでしょう。しるしを求めているのです。人々は救いを求めています。救い主、メシアが現れるのを待ち望んでいます。それなら、人が集まるところで、不思議なわざを見せれば、手っ取り早いではないか。神殿の屋根の上から飛び降りて見せて、傷一つ負わなければ、見た者たちは信じるに違いない。この人こそ、神に愛された者、神の子メシアに違いないと信じるはずだ。メシアを待ちこがれている群衆に、自分こそそれであることを示すためには一番の近道ではないか。神さまも詩編の中で、天使たちが守り支えることを約束しておられるのだから。
 振り返ってみれば、新興宗教はいつも、分かりやすいしるしを掲げて人々を誘います。うちの教祖は空中を飛ぶことができる、とか、火の中でもやけど一つ負わない、とか、人とは違う特別な存在であるということをしるしによって分かりやすく示そうとするのです。そんなばかげた宣伝に引っかかりはしないと思われるでしょう。しかし、案外、私たちもしるしを求めるのではないでしょうか。この世界に争いが満ち、飢えがあり、不正がはびこっている。神が愛なる方だというなら、どうして、この世界の状況を黙ってみておられるのか。あるいは、自分の愛する者が、重い病に苦しんでいる。痛みに耐えている姿を見ているだけでもつらい。神が愛であるというなら、どうして癒やしてくださらないのか。あるいは、大きな地震が起こって、教会堂が崩れてしまう。海外の大地震においては、そのために礼拝中だった人々が石の下敷きになって、多数の死傷者が出たなどと報道される。私たちも案外、心のどこかで考えているのではないでしょうか。真剣に神を礼拝していたら、たとえ大きな地震が襲ってきても守られるはずだ。それなら、礼拝中の災害で亡くなった人たちには神を拝む真剣さが足りなかったと言うことでしょうか。神さまを信じていたって、病気にもなるし、事故に遭うこともあります。それでも、神に愛されているしるしが欲しいのです。

 主イエスは再び申命記の中の言葉を引用して答えられます、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」。相手を本当には信じていないのに、自分が愛されている証拠だけ求めるというのは、人間関係においても身勝手なことになります。それは相手を試すことです。執拗にしるしを求める人々に対して、主イエスは言われました、「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(マタイ12章39~40節)。また長老ヨハネは言いました、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4章10節)。
 ここに、確かに神の愛のしるしがうち立てられています。神の御子が、人となって、すべての試練を味わわれ、十字架について死なれた。ここに愛があるのです。しかしそれさえも、自明のしるしではありませんでした。十字架にかけられた主イエスに対して、そこを通りかかった人々が頭を振りながら、主イエスを罵って言いました、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ27章40節)、「そうすれば、信じてやろう」(42節)。「神の子なら」。主イエスの受けられた、神の子としての試みは、その生涯を通して続いたのではないでしょうか。そして十字架において、その頂点に達したと言ってよいのです。神の愛する独り子が、人に捨てられ、神からも見捨てられたように、十字架の上で死ぬ。しるしを求める人々は躓きます。しかし、ここに神の御心が貫かれているのです。主イエスは、神の子だからこそ、十字架から降りずに、その痛みと苦しみの中に留まり続けてくださったのです。
 三番目の誘惑において、悪魔はついにその正体をはっきりと現します。あからさまに、礼拝を要求するのです。世界を支配する権威と引き替えに、自分にひざをかがめるように要求するのです。悪魔は、父なる神と主イエスの間を引き裂くだけでなく、自らに仕えさせようとするのです。主イエスは三度目も、申命記の言葉を持って答えられます。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み ただ主に仕えよ』と書いてある」。こうして主イエスは悪魔の誘惑をすべて退けられました。神の救いの道、十字架の道を阻もうとする誘惑、悪魔の試みに打ち勝たれたのです。

 主イエスはなぜ、三度にわたって、申命記の言葉を持って戦われたのでしょうか。申命記に描かれたイスラエルの民の不従順な歩みを思い起こしておられたからではないかと思います。エジプトの奴隷生活から解放され、二つに分けられた海の中を通って、イスラエルは荒れ野へと出ていきました。そこにも、洗礼から荒れ野への類比があります。イスラエルの民は、荒れ野を四十年にわたって旅しながら、神への信仰の真実を試されました。しかしながら、マナの奇跡の意味を理解せず、絶えず不平を言っては神を試み、果ては、手っ取り早い御利益が得られそうな偶像礼拝に誘われていったイスラエル。主イエスは、神の民イスラエルの挫折した四十年の旅路を、正しく踏み直すようにして、荒れ野で四十日を過ごされたのです。そして、神の口から出る一つ一つの言葉によって生き、神の愛を信じ、神のみを神とする、神の子としての歩みを貫こうとしておられるのです。その歩みを十字架に至るまで貫いて、ご自身の血によって、新しい神の民である教会を贖い取ってくださいました。教会をご自分の体として、主イエスは、今、確かに、私たちと共にいてくださるのです。
 私たちは、自分の知恵と信仰で、悪魔の巧妙な誘惑に打ち勝つことはできないかも知れません。けれども、主イエスが切り開いてくださった道を通って、神の民のひと肢として生きるとき、サタンの試みを恐れる必要はありません。私たちを十字架の主イエスから引き離そうとする、さまざまな誘惑と戦いながら、主イエスに続くようにして、「退け、サタン」と叫ぶことができるのです。

 ただ神のみを神とする。この礼拝において、私たちは、共に主のみ前に立ち、主なる神を拝みます。神を神とし、神の言葉によって生きる神の民のひと肢としての歩みは、ここから始まり、常にここへと立ち帰ってきます。そして、主ご自身のもてなしにあずかり、御言葉と聖餐という命の糧にあずかって、再び、試練に満ちた荒れ野へと遣わされて行くのです。それぞれの遣わされた荒れ野において、神の御名をほめたたえながら、主に従う歩みを続けて行きましょう。十字架と復活の主が、いつ、どのようなときも、霊において、私たちと共にいてくださいます。