2026年3月8日 受難節第三主日礼拝説教「主なる神が助けてくださる」 東野 尚志牧師

イザヤ書 第50章4~9節
ペトロの手紙一 第5章8~11節

 先週の金曜日、3月6日、三鷹にあります東京神学大学において、卒業式が行われました。一昨年、3年次に編入学して、滝野川教会で奉仕しておられる佐藤正幸神学生も、2年の学びを終えて、学部卒業となりました。通常の大学であれば、卒業すると社会に出て、それぞれ仕事に就くということになります。けれども、神学大学の場合、伝道者となるためのコースは、大学院の修士課程まで続く6年間のコースとなります。佐藤神学生も、無事に内部進学の審査に合格して、大学院の修士課程に進まれることになりました。ですから、卒業とはいっても、さらにあと2年間、大学院での学びが続くわけです。
 今年、大学院修士課程を終えて、伝道者となって教会に赴任する人たちは、12名でした。北は北海道から、南は沖縄まで、全国の教会に遣わされて行きます。日本基督教団の教会に赴任するのは、そのうちの9名です。最初から主任者として遣わされるのが6名。いきなり伝道牧会の最前線に立つことになります。卒業式における学長の告辞も、先輩牧師たちによるお祝いの言葉も、伝道者となって教会へと赴任する人たちに向けた励ましの言葉として語られます。神学校を巣立っていく人たち、伝道の第一線へと赴く人たちへの壮行の言葉と言ってもよいと思います。それぞれの経験を踏まえながら、伝道者の生活とはどういうものであるかが語られるのです。その厳しさと喜びが告げられます。その困難と、しかしそのただ中で与えられる確かな祝福が語られます。それは、今朝、私たちが聞いたペトロの言葉にも通じるものだと言ってよいのではないかと、私は思います。

 確かに、ペトロは、伝道者となる者たちに向けて語っているわけではありません。洗礼を受けて、新たにキリスト者としての歩みを始めた者たちに語ります。神を信じて生きる信仰の生活とはどのようなものであるかを語るのです。私たちは、この世で信仰をもって生きるというとき、どのような生活を思い浮かべるでしょうか。この世の苦しみや悩みから解放された平安な生活を思い浮かべる人がいるかもしれません。確かに、神さまを信じるとき、この世の何ものによっても脅かされない平安が約束されています。けれども、そこにはまた、信仰に立ち続けるための戦いがあるということも、否定することはできないのです。
 戦い、などという言葉を聞くと、心を痛める人も多いのではないかと思います。日々のニュースを通して、悲惨な戦いの現実が目に飛び込んで来るからです。空爆を受けて、瓦礫の山となった町の様子が報じられ、子どもたちを含めた犠牲者の数が告げられます。しかも、神の民として選ばれ、神に愛されている者たちの国であるはずのイスラエルが、その戦いの中心にいるのです。神を信じている者たちが戦っているのです。戦いのない世界を願いながら、神さまの憐れみと助けを求めます。それなのに、信仰生活は戦いだと言われると、どうしても、すんなりのみ込めない、ひっかかりを覚えてしまうのではないでしょうか。
 しかし、間違えてはならないと思います。信仰の生活における戦いの相手は、人間ではありません。私たちが戦いという言葉で思い浮かべるのは、いつでも人との戦いです。いわゆる戦争は、その最たるものということになります。人と人との関係、国と国との関係が問題になります。けれども、ペトロは、信仰者の戦いは、血肉に対する戦いではなくて、悪魔との戦いだと言うのです。

 結びの挨拶を記す前に、ペトロは手紙全体の締めくくりとして、とても強い語調で、信仰の生活について記します。ペトロの手紙一の第5章8節です。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています」。「悪魔」などと言うと、何かおとぎ話のように感じる人がいるかもしれません。角が生えて、尻尾があって、槍を手にしているような姿で描かれることもあります。けれども、悪魔という存在は、決して、子どもだましの作り事ではありません。ここで「悪魔」と訳されている「ディアボロス」というギリシア語は、しばしば、ヘブライ語の「サタン」の訳語として用いられます。人を中傷する者、悪意を持って告発する者を意味します。神に背くように人をそそのかし、神の前に人の罪を告発する存在です。そのようにして、神と人との関係を引き裂き、人と人との関係をも引き裂くのです。人と人が、神さまの赦しを忘れて、互いに争い合うとき、悪魔はほくそ笑んでいることと思います。それは、悪魔の思うつぼです。悪魔は私たちを神から引き離そうと狙っているのです。
 しかも、その悪魔が、身を潜めて狙っているというのではなくて、むしろ、身を隠そうともせずに、ほえたけるライオンのように、獲物をさがし求めながら、歩き回っているというのです。身近に迫っている危険を察知して、備えをしなければなりません。ペトロは「身を慎み、目を覚ましていなさい」と語ります。「身を慎み」と訳されている言葉は、すでに同じ手紙の1章と4章にも出て来ました。1章13節「それゆえ、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」。4章7節「万物の終わりが迫っています。それゆえ、思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈りなさい」。もとの言葉は、酒に酔わずにしらふでいることを意味します。また「目を覚ましていなさい」という言葉は、祈りと深く結びつきます。目を覚まして祈っているようにと言うのです。祈りは神さまと私たちのつながりです。悪魔と戦うためには、惑わされることなく、神さまとのつながりの中に留まり続けることが、何よりも大事なのです。

 悪魔との戦いがどのようなものであるのか、それをよく示しているのが、主イエスのご生涯だと言ってよいかもしれません。福音書は、主イエスが福音を宣べ伝える公の活動を始められる前に、悪魔との戦いに臨まれたことを記しています。洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた主イエスは、荒れ野に出て行かれました。マタイによる福音書は、こんなふうに記しています。「さて、イエスは悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」(マタイ4章1節)。主イエスは神の霊に促されるようにして荒れ野へと出て行かれました。それは、悪魔から試みを受けるためであった、とマタイは言うのです。主イエスは、公の生涯の初めから、悪魔との戦いを自覚しておられました。いったい、そこでどのような戦いをされたのでしょうか。それは、ひと言で言えば、神に対する信仰を試された、試みられた、ということです。
 主イエスは、父である神さまから遣わされて、この地上にお出でになりました。それは、この地上において、神さまの救いの御業を成し遂げるためです。それは、弟子たちを集め、教え導き、病を癒やし、悪霊を追い出すという仕方で進められました。しかし、その究極の目的は、十字架にかかって死ぬことによって、神に背いた者たちの罪をすべて償うことでした。私たちを罪の支配から救い出して、神さまのものとして贖い取る。御子は、そのために、ご自身の命を犠牲として贖いを成し遂げようとされました。十字架への道を選び取ってくださったのです。だからこそ、悪魔は、十字架への道から主イエスを引き離そうとしました。石をパンに変えて、飢えている人たちを助けることで救いの業を果たせるのではないか。あるいは、不思議な奇跡やこの世的な繁栄を示すことで、人々を慰め、満足させることができるのではないか。そう言って、十字架にかかることなしに、人々を救う道があるかのようにそそのかして、父なる神の御心に背かせようとしたのです。三度目には、悪魔はその本性を現わしました。世界の国々の繁栄を見せた上で、悪魔は主イエスにいいました。「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう」。主は言われました。「退け、サタン、『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」。悪魔は離れ去り、天使たちがやって来て主イエスに仕えたと、マタイは記します。けれども、悪魔との戦いは、公の生涯の初めだけではなく、生涯続いたのではないでしょうか。

 主イエスが、いよいよ最後の御業について、すなわち、十字架の死について、弟子たちに語り始められた時のことです。ご自分が間もなくエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると、打ち明けられました。すると、ペトロが主イエスを脇へお連れして、いさめ始めたのです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。すると、主イエスは振り向いてペトロに言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている」(マタイ16章23節)。主イエスは、父である神さまの御心に従って、私たちすべてを罪と死の支配から救い出すために、地上に来られました。それは、私たちの身代わりとなって、十字架の上で、神の裁きを引き受けて、死ぬことを意味していました。ただひとり、罪のないお方である御子イエスの死によらなければ、私たちの罪が贖われることはなかったからです。それが神の御心であり、唯一の救いの道でした。この道に立ちはだかり邪魔をする者は、たとえ、直弟子のペトロであっても「サタン」「悪魔」と呼ばれました。ほんの少し前に、弟子たちを代表して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白したペトロでした。主イエスはペトロの告白という岩の上にご自身の教会を建てるとまで言われました。しかし、十字架への道の邪魔をするなら、容赦なく「サタン」の試みとして退けられたのです。
 主イエスの悪魔との戦いは、十字架につけられてからも続きました。主イエスが、二人の強盗と一緒に、その真ん中として十字架につけられたとき、その場所を通りかかった人たちが、頭を振りながら主イエスを罵って言いました。「神の子なら、自分を救って見ろ。そして十字架から降りて来い」。同じように、祭司長たちも、律法学者や長老たちと一緒になって、主イエスを侮辱して言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。彼は神に頼ってきた。お望みならば、神が今、救ってくださるように.『私は神の子だ』と言っていたのだから」(マタイ27章40~43節)。「神の子なら」。それは、荒れ野で悪魔が主イエスを試みた言葉でした。「神の子なら、十字架から降りて見ろ」と罵る声に対して、主イエスは、神の子だからこそ、十字架から降りて来られなかったのです。あえて、十字架に留まり続けて、絶望の叫びを上げながら死ぬことによって、私たちの身代わりとなって神に裁かれ、私たちのための罪の贖いを成し遂げてくださいました。そのようにして、父なる神の御心に従い抜かれたのです。主イエスの地上のご生涯は、その最後まで、十字架から引き離そうする、悪魔との戦いであったと言って良いのです。

 信仰者の生涯が、戦いであるということを告げるとき、ペトロは、主イエスのご生涯を思い起こしながら、生涯、悪魔と戦い、その誘惑を退けられた主のお姿を模範として仰ぎ見ているのだと思います。そして、語るのです。「信仰をしっかりと保ち、悪魔に立ち向かいなさい。あなたがたのきょうだいたちも、この世で同じ苦しみに遭っているのは、あなたがたも知っているとおりです」。私たちを、神さまのご計画から引き離し、神のもとから引き剥がそうとする悪魔の試みに対して立ち向かうために、信仰をしっかり保ちなさい、と勧めます。それは、決して孤独な戦いではありません。神さまがこの世界をお造りになり、神さまが救いの完成に向けてすべてを導こうとしておられるのですから、同じように、悪魔の試みと戦う信仰の同志たちが世界中にいるのです。
 悪魔の試みは、実に巧妙です。神に対する私たちの信頼の心を挫こうとします。だからこそ、私たちが、信仰の仲間たちと共に祈る、祈りの絆の中で支えられて、しっかりと主につながり続けるために、主イエスは私たちに、祈りの言葉を与えてくださいました。神さまは「私の父」となってくださっただけではありません。神さまを「我らの父」と呼ぶことによって、同じ信仰の戦いを続ける仲間たちと一つにつながることができます。そして、人間の栄光を求めるのではなくて、ただ神の御名が崇められることを祈り、恵み深い神さまのご支配が、この地上に実現することを願い、御心が天では完全に行われているように、この地上においても、何よりも、私たちの歩みにおいて貫かれるようにと祈ります。そして、日々、神さまが与えてくださる肉の糧だけでなく、霊的な糧によって豊かに養われ、信仰者として成長させられることを求め、罪の赦しを祈ります。
 私たちの罪を赦すために、主イエスは、十字架への道を貫いてくださったのです。悪魔との戦いに打ち勝ち、十字架抜きの上辺だけの救いを退けて、神に対する私たちの罪をすべて背負ってくださいました。そして、ご自分の命を犠牲にして、私たちの罪の赦しを成し遂げてくださったのです。この大いなる恵みの中に捕らえられ、生かされているならば、私たちも、主イエスの赦しにあずかって、お互いの罪を赦し合い、主イエスにおいて一つとされて、祈りを合わせます。試みから守られ、悪魔の誘惑からも救い出されるようにと祈ります。主の祈りこそは、私たちの信仰の戦いの武器だと言ってよいかもしれません。この祈りをいつも思い起こし、口ずさむことで、私たちの信仰は、主イエスご自身の執り成しの祈りの中で守られるのです。

 私たちが、この地上の歩みの中で味わう苦しみは、永遠に続くのではありません。ペトロは語ります。「しかし、あらゆる恵みの源である神、キリストを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で癒やし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」。この苦しみは、「しばらくの間」続くだけだと言い切るのです。主なる神さまのご計画を信じているからこそ、私たちも、時を知ることができます。ここでは、「永遠の栄光」と「しばらくの苦しみ」が対比するように語られています。信仰者として味わう苦しみがどんなに辛くても、その苦しみはやがて訪れる喜びを大きくしてくれます。私たちのために、キリストを通して、永遠の栄光が備えられているからです。神ご自身が、しばらくの苦しみの後で、私たちを癒やし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださる、と約束されています。
 しばらくの苦しみの後に、私たちは完全に癒やされる。この「癒やす」と訳されている言葉は、もともとは「破れを繕う」という意味があります。かつてペトロは、漁師として、漁から戻ると破れた網を繕っていました。悪魔との戦いを経て、私たちの姿はズタボロになっているかもしれません。でも、神さまご自身が、主イエスが、その私たちの破れを繕って、私たちを完全な者へと回復してくださいます。神さまが、確かに私たちを守り支えてくださり、揺るがないようにしてくださるのです。
 嵐が来ても、岩を土台としているならば揺らぐことはありません。主イエス・キリストを土台として立てられているならば、揺るがない。ペトロが第2章で述べた言葉を思い起こします。「主のもとに来なさい。主は、人々からは捨てられましたが、神によって選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがた自身も生ける石として、霊の家に造り上げられるようにしなさい。聖なる祭司となって、神に喜んで受け入れられる霊のいけにえを、イエス・キリストを通して献げるためです」(2章4~5節)。そのような教会の働きを通して、神が栄光を受けてくださるのです。

 ペトロは、祈りをもって、手紙の本文を結びます。「力が世々限りなく神にありますように、アーメン」。4章11節の祈りに続く頌栄です。「語る人は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が崇められるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン」。それは、主が教えてくださった主の祈りに、教会が付した頌栄とも響き合います。「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」。とりわけ、ペトロがここで「力」を取り上げたのは、この世の権力者たちが、力を我が物として振るっている姿を目の当たりにしていたからだと思います。しかし、たとえ、この世の支配者、権力者が、我が物顔でその力を振るっていたとしても、その支配は一時的なものに過ぎません。必ず過ぎ去るのです。けれども、神の力、神の支配は、永遠に終わることはありません。かつて、イスラエルの民を選んで、契約を結ばれた神は、御子イエスをこの民の中に遣わして、主の御心に従う者たちに新しい契約を与えられました。私たちは、この新しい契約のもとに集められています。私たちは、主の弟子たちとして招かれて、主の御言葉の支配の中に守られているのです。かつて、預言者イザヤが告げた言葉が、主イエスを通して、私たちの上に実を結びます。

 「主なる神は、弟子としての舌を私に与えた
  疲れた者を言葉で励ますすべを学べるように。
  主は朝ごとに私を呼び覚まし
  私の耳を呼び覚まし
  弟子として聞くようにしてくださる。
  ……
  主なる神が私を助けてくださる。
  それゆえ、私は恥を受けることはない。
  ……
  見よ、主なる神が私を助けてくださる。
  誰が私を罪に定められよう。
」(イザヤ書50章4~9節)

 「主なる神が私を助けてくださる」と繰り返されています。どのようなときにも、主イエスは私たちの味方でいてくださるのです。主が私たちをご自身の弟子として、朝ごとに呼び覚ましてくださいます。命の言葉を聞かせてくださいます。主の言葉によって、互いに励まし合いながら、共に、キリストの者たち、主の弟子たちとしての歩みを刻んでいきたいと願います。