2026年2月8日 主日礼拝説教「賜物を用いて仕え合う」 東野 尚志牧師

イザヤ書 第33章2~6節
ペトロの手紙一 第4章7~11節

 昨日のお昼過ぎ、横浜在住の教会員のご子息から電話がありました。ホームに入っておられたお母さまが、その朝、天に召されたという知らせでした。昨年の11月に99歳の誕生日を迎えられた、滝野川教会の最高齢の方です。昨年、99歳のお誕生日の前日に、ひかり牧師と共に横浜のホームをお訪ねして、誕生日のお祝いをしました。女子聖学院での教え子である教会のお仲間がご一緒くださいました。キリスト者ではないご子息とホームの職員の方も加わって、一緒に讃美歌を歌い、聖書の言葉を読みました。間もなく、アドヴェントに入るという時期でもありましたので、さらにクリスマスの讃美歌を歌いました。拡大コピーをしてお持ちした讃美歌の楽譜を見ながら、クリスマスの讃美歌を楽しそうに何度も歌ってくださったことが思い起こされます。
 年が明けてしばらくして、下血があり、食事を止めて寝たきりの状態になりましたが、その後、少し持ち直しておられました。ベッドに横たわったままで、讃美歌を口ずさんでおられるお母さまの動画を、ご子息が送ってくださり、心温まる思いがしました。動画のアドレスを記したメールの中に、ご子息が記しておられました。「僕の知っている讃美歌が少なすぎるのですが、母が讃美歌を口ずさんでいるのは 特に何の欲望や欲求がなくなっている中で、讃美歌を口ずさめるのは意味のあることと感じています」。その命の火が消えようとする中で、讃美歌を口ずさむ。それはすばらしいことではないでしょうか。看取るご子息の心にも、深い信仰の証しとして刻まれたのではないかと思います。

 身近な人の死は、人生に終わりがあることを意識させます。私たちも、いつか、地上の命の終わりの時を迎えるのです。それは、この世に生まれたときから、すべての人の人生に、避けることのできない運命として定められています。人によって、早いか遅いかの違いはあるにしても、この地上に生まれた以上、やがてこの地上を去る時が来る。地上の命は永遠に続くわけではないのです。いつであるか、それは分かりませんけれども、いつか必ず、終わりの時を迎えることになります。そして、私たち一人ひとりに、それぞれの人生の終わりの時が訪れるのと同じように、この世界、この世にも終わりがある、と聖書は告げているのです。
 「万物の終わりが迫っています」。ペトロの手紙は告げています。「万物」とは「すべてのもの」ということです。すべてのものの終わりがすぐそこまで近づいている、と言うのです。私たち一人ひとりに寿命があるように、この地球にも寿命があって、年老いて滅びの時を迎えようとしている、ということでしょうか。あるいは、いわゆる天寿を全うしたとは言えないような死があるように、つまり、若くしても、事故や事件に巻き込まれて、また重い病を患って、死を迎えることがあるように、この世界も、私たち人間の存在によって自然の調和が壊されて、極端な温暖化や自然破壊のために、あるいはまた、大きな地震や自然災害によって、さらには人間が作り出した破壊的な兵器による戦争のために、滅びの時を迎えようとしている、ということでしょうか。そうではありません。聖書は、滅びへと向かいつつある世界と人間の現実を見つめながら、絶望的に滅びとしての終わりを告げているわけではないのです。

 「万物の終わりが迫っています」。ペトロがそのように告げるとき、見つめているのはこの世界の現実ではありません。聖書が「万物の終わり」について語るとき、それは、私たち自身の経験に基づいて、感覚的に捕らえる終わりとは違うのです。聖書の一番初めには、神が天地万物を造られた、天地創造の出来事が描かれています。この世界は何となくできたのではありません。偶然の積み重ねで進化してきたというのでもありません。神がすべてのものをお造りになりました。そこから世界と人間の歴史が始まりました。そして、すべてのものに始まりをお与えになった神が、すべてのものに終わりをもたらされるのです。神は、何の考えもなしに、ただの思いつきや気まぐれで、世界を造られたのではありません。神さまは、ご計画に従って世界をお始めになりました。そしてまた、そのご計画に従って、世界を終わらせられるのです。
 そうであるならば、神さまは、はじめにご計画されたように、すべてを完成してくださいます。たとえ、人間が神さまの御心に逆らって、自分が神であるように傲慢に振る舞って、神さまのご計画を台無しにしてしまったように見えたとしても、神はその人間の愚かな行いや反抗的な振る舞いをさえ用いて、ご自身の計画を成し遂げてくださいます。神さまのご計画は、背いた人間を救うために、ご自身の愛する独り子を十字架の死に引き渡すほどの、深い愛をもって成し遂げられるのです。それならば、この世界にどれほど悪がはびこり、滅びを予感せざるを得ないような悲惨な状態になってしまったとしても、私たちは、なおも神の愛の御心を信じることができるのではないでしょうか。創世記から始まった聖書の物語は、罪に満ちた人間の歴史を包み込むようにして、ヨハネの黙示録が描いている裁きと救いの完成によって終わるのです。

 「万物の終わりが迫っています」。今から二千年前、神の御子である主イエス・キリストがこの地上にお出でになり、公の活動をお始めになったとき、最初に口を開いて告げられた言葉を思い起こします。宣教の第一声において、主イエスは言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1章15節)。「時は満ち、神の国は近づいた」。「近づいた」と訳されていますけれども、近づいただけで、まだ来ていないというのではありません。用いられているのは完了形です。「すでに来ている」と訳すこともできます。主イエス・キリストがこの世に来られたことによって、すでに、神の国が来ている、主イエスにおいて、神の支配が始まっている、ということです。実は、ペトロの手紙が用いているのも、同じ言葉、時制も全く同じです。ペトロは、主イエスの言葉づかいに重ね合わせたのかもしれません。主イエスにおいて、神の国、神の支配がすでに来ているということは、主イエスにおいて、万物の終わりもすでに来ている、すでに終わりが始まっている。ペトロはそのように告げているのです。
 主イエスの到来によって、その十字架と復活によって、すでに私たちのための完全な救いが成し遂げられました。私たちは、すでに十字架による罪の赦しの恵みにあずかって、神の子としての新たな命を生き始めています。けれども、その救いは私たち一人ひとりの現実においては、まだ完成されていません。私たちは、永遠のいのちをいただきながらも、なお朽ちていく体の中で生きています。ペトロが4章2節で用いた言葉を借りて言えば、「肉における残りの生涯」を生きているのです。やがては、地上の命の終わりの時を迎えます。けれども、終わりの日、主が再び天から降って来られる再臨の時、私たちには、もはや朽ちることも滅びることもない復活の体、栄光の体が与えられて、ついに救いが完成されるのです。それこそが、終わりの終わりと言ってよいかもしれません。私たちは、終わりの始まりと、終わりの終わりの間の時を生きているのです。

 キリストが再び来られる再臨の時に備えて、この終わりの時を生きる者として、どのような覚悟をもって生きていけば良いのでしょうか。ペトロはまず、その基本姿勢を記します。「万物の終わりが迫っています。それゆえ、思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈りなさい」。「思慮深く振る舞い」というところを、以前の口語訳聖書では「心を確かにし」と訳していました。分別を持つ、とか、自制心を保つ、と訳されることもあります。自分の心をきちんと自分で制御する、ということです。終わりが来るというので、慌てふためいて我を忘れるようなことがあってはならないということでしょう。むしろ、落ち着いてものごとをきちんと見分け、見定めるようにというのです。それは、今日的に言えば、フェイクニュースに踊らされて、慌てたりしないということにもなります。聖書が告げている主イエスの再臨による救いの完成、この完成を、確かに望み見ているならば、冷静な判断を失うことはないはずです。主の約束に対する信頼をもって、惑わされることなく、真実を見抜いていくようにというのです。
 続いて、「身を慎んで、よく祈りなさい」と告げられます。「身を慎む」と訳される言葉は、聖書の中でよく用いられています。もともとは、酔わずにしらふでいることを意味する言葉です。何のために、しらふでいるのでしょうか。それは、祈りに心を注ぐためです。主イエスはしばしば、「目を覚まして祈っていなさい」と言われました。私たちの精神は、飲んだくれて眠り込んでしまってはなりません。目を覚まして、神に祈るのです。新改訳の聖書では、「祈りのために、心を整え身を慎みなさい」と訳しました。すべてを裁き、救いを完成される主の来臨に備えて、心を整えて確かにし、身を慎んで祈ることが求められています。祈りの中でこそ、私たちは主の御心を求めながら、主のまなざしのもとで自分自身を見つめ直すことができます。そして、繰り返し、悔い改めをもって、主に立ち帰ることができるのです。

 「思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈る」。この基本姿勢のもとで、具体的な生き方が示されます。「何よりもまず、互いに心から愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」。「何よりもまず」という言葉で、最も重要なことが告げられます。「互いに心から愛し合いなさい」と言うのです。「互いに」と言うのですから、これは、教会の中における信仰者同士の交わりについて告げていると考えられます。「心から」と言うのですから、上辺だけではなく、建前だけでなく、ということでしょう。もとの言葉には、「たゆまない」とか「緊張した」という意味もあります。どのようなときにも、たゆむことなく、真剣に愛し合うことが求められているのだと思います。お互いの関係ですから、いろんな状況があり得ます。喜んで愛せる時ばかりではありません。怒りや苛立ちを感じるときもあるはずです。相手の言葉や態度で傷つけられることもあります。そういう時にも、愛するというのは、決してたやすいことではないと思います。口語訳聖書では「互の愛を熱く保ちなさい」と訳していました。どのような状況においても、愛を保ち続けるように、と言うのです。
 それがどれほどに困難なことであるか、真剣に他人と関わろうとしたことのある人なら、すぐに分かると思います。人間ですから、良いところもあれば、嫌なところもあるのです。嫌なところは見ない振りをして、気づかない振りをして、ぶつからないようにして生きる。それは処世術のひとつかもしれません。この世の関わりにおいては、適度に相手と距離を置きながら、互いに傷つかないように、傷つけ合わないようにする、というのが、この世の知恵かも知れません。けれども、教会の中で、信仰の仲間同士においては、そうであってはならないと言うのです。どのような状況においても、建前ではなく、真剣に、心から相手を愛する。そんなことが、本当に可能なのでしょうか。自分にとって苦手な人は、敬して遠ざける。本当に心の中で尊敬しているならまだしも、心の中では相手を蔑みながら、近づかないようにする。関わらないようにする。相手が間違っていると思っても、それを言うとぶつかりそうだし、恨まれても嫌だから言わないでいる。波風が立たないようにする。そんなのは、愛でも何でもありません。単なる自己保身でしょう。

 だからこそ、ペトロは続けて語るのです。「愛は多くの罪を覆う」。これもまた誤解されやすい言葉かも知れません。「罪を覆う」というのは、どういうことでしょうか。愛があるならば、無闇にひとの罪や過ちを暴き立てることをしない、ということもあるかもしれません。その意味では、今ネットに溢れている言葉は、他人の間違いや失敗を暴き立てて、まるで自分は正義を行っているつもりのような、まことに愛のない言葉が多いのではないでしょうか。相手の顔が見えないだけに、容赦なく相手を叩きのめすような、思いやりのない言葉が溢れています。そこに愛はありません。だから、罪を覆うこともないのです。
 けれども、罪を覆うというのは、ただ見て見ぬ振りをするとか、罪を見逃すということではないはずです。罪を隠して、いい加減に扱うということとは違うのです。この点、私たちは、ひとの罪と向き合うことがなかなかうまくできないところがあると思います。ひとの罪を、相手に向かってはっきり言うということを控えるという日本的な思いやりの心が働きます。面子を潰さないように、相手を傷つけないように、できるだけ、穏便にすませようとするのです。けれども、あからさまには言わないことを、陰で口にしたりします。本人がいないところで、あの人はこんなことをしている、あれは悪いことだ、などと言って噂話をするのです。それもまた、聖書が求める愛とはかけ離れたものではないでしょうか。

 罪を覆うというのは、罪を隠して見えないようにするということではありません。まるで、罪がないかのように、隠してしまうということではありません。そうではなくて、そこに罪があることをはっきりと見据えながら、その罪を赦すのです。罪を覆うというのは、罪を赦す、ということがなければただのごまかしになってしまいます。愛し合うというのは、赦し合うことだと言ってもよいのです。教会の中においても、私たちの罪によって、あるいはまた私たちの弱さや欠けのゆえにさまざまな問題が起こります。そのとき、私たちは、互いに赦し合う中で、互いの弱さを支え合い、欠けを補い合って行くのです。
 私たちは、どのようにして、ひとの罪を赦すことができるのでしょうか。それは、私たち自身が、罪赦された者であるからです。主イエスは、主の祈りの中で、「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈るように教えられました。私たちの罪が赦されることを求めるとき、私たちもまた、ひとの罪を赦すという重荷を負う必要があるのです。赦そうとして赦せない、しかし、赦そう、なぜなら、主イエスは、私の罪を赦すために、十字架にかかってくださったのです。だから、いつも主イエスの十字架の赦しに立ち帰りながら、罪を覆い、罪を赦そうとする。そこに、私たちの祈りの戦いがあり、そこにこそ、本当の愛が宿るのです。そしてまた、真実に愛するがゆえに、「不平を言わずにもてなし合い」、「賜物を用いて互いに仕え」る生き方が導かれることになります。

 日本語で「もてなし合う」と訳されているところを、英語の聖書では「ホスピタリティ」という言葉を用います。かつて鎌倉の教会に仕えていた頃、宣教師の先生を通して、海外の教会と交流して、互いに行き来をしていました。まさに、旅人をもてなし合う交流の中で、「ホスピタリティ」という言葉を何度も耳にし、また口にしたことを思い起こします。元来は、文字通り、旅人をもてなすことを意味していたと思われます。しかし、旅人に限らず、お互いに親切と善意をもって仕え合うことと理解してよいと思います。そして、その際に、「賜物を用いて」仕え合うことが求められるのです。
 ペトロは語ります。「あなたがたは、それぞれ賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を用いて互いに仕えなさい」。「賜物」と訳されている元の言葉は「カリスマ」と書かれています。最近では、特別な才能や技術を持った人のことを「カリスマ」と呼んだりして、日本語の中にも定着しているようです。けれども、本来のカリスマは、特別な人だけではなくて、すべての人に与えられています。元の言葉は、神の恵みを意味する「カリス」という言葉と深くつながります。「カリスマ」「賜物」というのは、その人が自分で身に着けた才能というのではなくて、神が恵みとしてすべての人に分け与えてくださっているのです。それがどのように現れるかは人によって違います。私たち一人ひとりが、神からそれぞれの賜物を授かっており、すべてのキリスト者は、神の恵みの善い管理者とされているのです。管理者であって、所有者ではありません。その賜物は、恵みの源である神からのものであり、それぞれが賜った恵みの賜物を活かして、互いに仕え合うように、と言うのです。

 さまざまな賜物がある中で、ここでは、語る務めと仕える務めが取り上げられます。「語る人は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」。今日、この礼拝が成立するためにも、多くの愛の奉仕が献げられています。聖餐の食卓が整えられ、食卓に仕える者たちがいます。御言葉を語り、聖餐を分かつ教師が立てられました。それぞれに、神が与えてくださった奉仕に生きることによって、豊かな礼拝の交わりが作られています。聖書が繰り返し語っている言葉の響きに注意深く耳を傾けてください。御言葉は言います。「愛し合いなさい」、「もてなし合いなさい」、「賜物を用いて互いに仕えなさい」。そこでは一人のお客さんもいません。私たちは互いに愛し合い、もてなし合い、仕え合うのです。目に見える愛のわざだけではなく、たとえ何もできないように見えても、祈りによって、仕え合うことができます。執り成し合うことができます。そのようにして、愛し合い、もてなし合い、仕え合う交わりの中心に、主イエス・キリストが共にいてくださるのです。
 主は私たちを愛し抜いてくださり、私たちを今も、御言葉と聖餐によってもてなしてくださいます。そして何よりも、ご自身の命を献げて私たちの救いのために仕えてくださったのです。私たちが、主イエスのもとに共に集い、主イエスを共に仰いで礼拝をするとき、御言葉の約束は確かに、この礼拝において実現しています。「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が崇められるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン」。有名な音楽家のヨハン・セバスチャン・バッハは、自分が書いた楽譜の最後に、S.D.Gと記しました。Soli Deo Glpria. 「神にのみ栄光あれ」。私たちも、私たちの人生の最後に、S.D.G.と記すことができれば幸いです。すべてを主に委ねて、安心して讃美歌を口ずさむことができるのは、何と幸いなことでしょうか。顔と顔を合わせるようにして、主とお会いする日を待ち望みながら、霊なる主を、心からたたえたいと思います。