2026年1月11日 主日礼拝説教「キリストを主とあがめよ」 東野 尚志牧師

イザヤ書 第8章11~15節
ペトロの手紙一 第3章13~18節

 宗教とは何か、ということを考えるとき、いつも思い出す言葉があります。今からもう45年以上前のことになります。私が高校生であった頃、クラス担任であった英語の先生が語られた言葉です。私たちが生きているこの世界には、さまざまな問題がある。つまずいたり、転んだり、苦しみや悩み、悲しみや痛みをもたらす問題がたくさんある。そういう問題を赤裸々にさらけ出すのが文学である。文学がさらけ出した人間の問題を整理するのは哲学である。でも、哲学は答えを出すことはできない。人間の問題、人生の問題に、最終的に答えを出すのは宗教である。そう言われました。以前にも、ご紹介したことがあるかと思います。なるほど、うまいことをいうものだと感心したのです。だから、今でも心に残っています。文学がさらけ出した人間の諸問題を哲学が整理して、宗教が答えを与える。だからこそ、私たちは、その答えを得ようとして、さまざまな宗教に助けを求めるのだというのです。
 私が学んだ高校は、仏教の高校でした。仏教の教えでは、人間の根本的な苦しみとして、「生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)」の四つを数えます。生まれることから苦しみは始まり、さらに年老いることで体力や気力が衰えて、自由が利かなくなる苦しみがあり、病による痛みや苦しみが加わり、最後には、死への恐れと苦しみが待ち構えているのです。さらに、この四つに加えて、愛する者と別れる苦しみ(愛別離苦・あいべつりく)、憎んでいる相手と会う苦しみ(怨憎会苦・おんぞうえく)、求める物が思うように与えられない苦しみ(求不得苦・ぐふとくく)、また自分の体や心が思うようにならない、生きているだけで沸き起こってくる苦しみ(五蘊盛苦・ごうんじょうく)、この四つを加えて、四苦八苦と呼びます。何とかして、この苦難から逃れたいと願って、宗教を訪ね、信仰の道を求めます。信仰に入ったら、苦しみから解放されて、平安が得られることを期待しているのです。

 キリスト教会も、世にあるさまざまな宗教のひとつです。私たちが教会に来るようになったきっかけを考えてみれば、やはり、いろいろな悩みを抱えながら、自分ではどうすることもできない苦しみに呻きながら、慰めや答えを求めて、何とかして心の平安を得たいと願って教会に来た、という人が多いと思います。中には、信仰者である親や兄弟、家族に誘われて、教会に来るようになった人もいるでしょう。求めるというよりは、習慣のように教会に来ているという人もあると思います。あるいはまた、学校で出されたレポート課題がきっかけで、教会に来た人もいると思います。いろいろなきっかけはあるとしても、自分自身の必要や願いから教会に来たのであれば、その必要が満たされれば、もう教会に来ることはなくなるのかもしれません。逆に、ここにいても答えは与えられない、と思ったら、さっさと離れていくのでしょう。
 今、こうして、礼拝に集っている私たちにも、聖書の教えを通して、苦しみから解放されたい、慰めを得たい、という求めがあるのだと思います。けれども、聖書を良く読んでみると、だんだん分かってくることがあります。聖書は、信仰に入れば苦しみがなくなるなどということを語ってはいない、ということです。確かに、主イエス・キリストの十字架の救いを信じることによって、罪の重荷から解放されて、自由を得ると教えられます。罪の赦しを与えられることで、平安を得ることができます。生きている以上、罪を犯すことはなくならないとしても、神の裁きをいたずらに恐れる必要はなくなります。しかしまた、その反面、信仰を得たことによって、苦しまなくてはならないことも生じるのではないでしょうか。信仰がなければ、悩むこともなかったようなことで、信仰があるからこそ悩み苦しむことも起こるのです。

 二千年前、最初にこの手紙を受け取った人たちにとって、それは、具体的に、迫害によって苦しめられることとして降りかかりました。教会が生まれてしばらくの間は、ユダヤ人たちからの迫害に苦しめられました。旧約聖書の律法の中に、「木に掛けられた者は、神に呪われた者」(申命記21章23節)とあることを根拠にして、十字架にかけられ、殺されたイエスは、神に呪われた者ではないか。それを神の独り子、メシア救い主として宣べ伝える教会は、神の律法に逆らう者たち、神を冒瀆する者たちとして迫害されました。使徒パウロも、ユダヤ人の間でサウロと呼ばれていた頃は、キリストの教会を迫害することで、自分は神に仕えていると信じていたのです。しかし、復活のキリストと出会うことによって、サウロは180度の回心を経験しました。そして、ガラテヤの信徒への手紙の中で、キリストが十字架にかかられたのは、私たちが受けるべき呪いを代わって受けてくださったのだと説きました。そして、十字架と復活の主イエス・キリストこそは、私たちの救い主であることを力強く宣べ伝えて行ったのです。そうなると、もはやキリスト教は、ユダヤ教の枠の中には収まり切らなくなります。そして、ローマ帝国からの迫害にさらされるようになったのです。
 生きることの苦しみ、悩みから逃れたいと願って、教会に集って、キリストの教えに触れました。キリストの教えを学んだだけではありません。御言葉を通して、生ける主イエス・キリストご自身と出会ったのです。そして、主イエスを救い主と信じて洗礼を受け、キリスト者となった。主イエス・キリストこそ、生ける神の子、救い主、そのように告白して、キリストを神として礼拝しました。ところが、ローマ帝国は、ローマ皇帝を神として崇めることを命じます。皇帝を拝まない者は捕らえられ、処刑されてしまう。新たにキリスト者となった信徒たちは、キリストを信じるがゆえに、迫害にさらされ、苦しめられるようになりました。キリスト者になるということは、殉教の覚悟を迫られることになったのです。それは、遠い昔の話ではありません。日本でも16世紀の戦国時代、キリスト教が伝えられて、信仰を得た者たちは、やがてキリシタン禁令のもとで、迫害を受け、多くの殉教者が出ました。さらにまた、80年前、太平洋戦争が終わるまで、いわゆる戦前の時代は、天皇が神と崇められ、天皇とイエスとどちらが偉いかと詰め寄られ、キリストへの忠誠を貫いて殉教した牧師たち、信徒たちがいたことを忘れてはならないと思います。信じることは命懸けの時代があったのです。

 16世紀の日本にキリスト教を伝えたのは、イエズス会の宣教師でした。フランシスコ・ザビエルが種子島に上陸したのは1549年のこととされます。「以後よく広まるキリスト教」という語呂合わせで、1549年という年号を覚えました。それは、ヨーロッパにおいては宗教改革の時代です。1517年、ルターによる宗教改革が始まり、改革運動は瞬く間に広がっていきました。それを受けて、ローマ・カトリック教会の内部でも、やはり信仰復興の運動が起こります。良心的な信仰者たちがいたのです。「対抗宗教改革」と呼ばれました。その刷新運動の中で、イエズス会が生まれ、海外宣教を始めたことで、日本にカトリックのキリスト教が伝えられたわけです。しかし、ヨーロッパでは、カトリックの教会と新しく生まれたプロテスタントの教会の間で、戦争が起こるような厳しい時代を迎えていました。そんな中で、現在のドイツ、ハイデルベルクの町で生まれたのが『ハイデルベルク信仰問答』という教理問答の書物です。カトリックの幼児洗礼を受けていた人たちが、プロテスタントの信仰を学ぶために、多くの教理問答書が生まれた時代です。日本の教会でもよく知られ、また良く読まれている『ハイデルベルク信仰問答』が出たのは、1563年のことですから、ルターによる宗教改革開始から46年後、日本にカトリックのキリスト教が伝えられた15年後のことになります。いずれも同時代のことなのです。
 『ハイデルベルク信仰問答』は、全部で129の問答から成っていて、その中で、「使徒信条」と「十戒」と「主の祈り」、いわゆる「三要文」が説き明かされる構成になっています。ルターが最初に書いた「小教理問答」以来、これが教理問答の基本的な構成になりました。三要文を説き明かすことで、プロテスタントの立場に立つキリスト教信仰の神髄を教えるのです。『ハイデルベルク信仰問答』の最初の問いはこう始まります。「問一 生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」。生きている以上、慰めを必要としない人はいません。もちろん、人によって慰めとなるものはいろいろあると思います。どんなに仕事で疲れていても、いい音楽を聴くと、新しい力が沸いてくる人もいるでしょう。本を読んだり、旅をしたり、気分転換をはかることで、慰めを得て辛い現実に立ち向かっていくのです。けれども、突然、愛する者の死に直面したとき、あるいは、自分自身が重い病にかかって死を宣告されるような事態になったとき、それまで生きる慰めであり、励ましであったものが、何の力も持っていないことに愕然とする。死に直面したとき、死ぬ時にも、なお空しくなることなく、あなたの慰めであるものは何か、と問うのです。

 私が初めて『ハイデルベルク信仰問答』という文書のことを知ったのは、神学生になってからのことでした。具体的な状況は忘れてしまったのですけれども、この信仰問答の翻訳者でもあった竹森満佐一という先生が、東京神学大学の授業の中で、この最初の問いの言葉を教えてくださったことがありました。この信仰問答が書かれた状況の中で、「生きている時も、死ぬ時も」というのは、信仰のゆえに殺されることになったとしても、という意味だと教えてくださったのです。厳しい迫害にさらされています。生きている時にも迫害の苦しみにさらされています。そして、信仰のゆえに命を奪われ、殉教しなければならない、そのような時にも、なお、あなたの慰めとなるのは何かと問うたのだというのです。忘れることのできない言葉になりました。
 信仰問答は答えて言います。「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります」。竹森先生の翻訳で読みました。生きて苦しんでいる時も、殺されることになったとしても、私の身も魂も、キリストのものであること、ここにこそ、ただ一つの確かな慰めがある、というのです。キリストに対する信仰に生きようとしたために、生きているときにも苦しめられ、信仰のゆえに殺されてしまう。そんなとき、私は私のものだ、自分の人生を生きる、なんて言っても、何の力にもなりません。自分で自分を支えることなどできない、自分の命が奪われてしまう、そのようなときにも、私は私自身のものではなくて、イエス・キリストのもの、私の真実な救い主であるイエス・キリストのもの、だから、すべてを主イエスに委ねて、平安を得ることができる、と言うのです。信じるということの重み、その深みが迫って来るのではないでしょうか。

 信仰の証し、という言葉があります。私たちの教会でも、2年前、教会創立120年を記念して、新しい「証し集」を作りました。この「証し」という言葉も、現代のキリスト教会の中では、ずいぶん軽くなってしまったのではないかと思います。教会によっては、信徒の証しを大切にするところもあります。伝道集会というと、説教ではなくて、証しが語られる。もちろん、それは信仰の証しですから、自分の受けた恵みを通して、神の御業を語るのです。けれども、しばしばそれは、自分の体験談を語り、自分を誇ることにすりかえられてしまいます。病気が癒されたのは、神さまの恵みであったと証しする。あるいは、大きな災害や事故の中でも、自分だけが九死に一生を得た。それを神さまのお守りだといって、感謝する。しかし、そういう言葉を耳にするたびに、それは本当に信仰の証しになるのだろうか、と疑問に思うことがあります。
 例えば、不幸な列車事故によって、多くの犠牲者が出た。しかし、自分は同じ車両に乗り合わせていたけれども、かすり傷一つ負わなかった。そういう場面で、果たして、キリスト者は、イエスさまが私を守ってくださった、といって喜んでいることができるのでしょうか。ほんの数メートルも離れていないところで、血を流し苦しんで死んでいった人は、信仰が無かったから守られなかった、とでも言うのですか。あるいは、癌を告知されたけれども、奇跡的に助かった。それはほんとうに感謝すべきことです。しかし、それは決して、自分の信仰のゆえに、神さまが守ってくださったということではないはずです。どんなに信仰深い人でも、事故で命を落とすことがあり、病の故に苦しんで死を迎えることはある。自分に都合のいいことが起こり、自分の命が助かり、すべてがうまくいっているときに信仰を持ち出して語る言葉に、果たして、どれだけの証しの真実があるでしょうか。そこで一体、どのようなキリストの救いが証しされるのでしょうか。むしろ、真実な信仰の証しというのは、苦しみの中でこそ現されるのではないかと思います。

 証しをする人、という意味で、「証人」と訳される聖書の言葉は、また同時に、殉教者を意味する言葉でもあります。自分にこんなよいことがあった、自分の人生は順風満帆だ、その絶頂で、イエスさまありがとうございます、と言ったとしても、それはご利益宗教と変わりません。聖書が教えている証しは、そうではありません。たとえ信仰のゆえに命を奪われることになっても、イエス・キリストに対する真実を貫くことです。信仰のゆえに、世間的には損と思われるような事柄を引き受けなければならないとしても、人から誤解されたり、傷つけられたりしても、あるいは、信じていて何になるのか、と私たちをそそのかす声が聞こえ、信仰を捨ててしまいそうになるときにも、なおイエス・キリストに対する真実を貫くこと、それがほんとうの証しなのです。
 そのような信仰を貫き、証しを立てることには戦いが伴います。周囲との戦いだけではありません。むしろ、最も困難なのは、自分の中に忍び込んでくる誘惑や疑いとの戦いです。私たちの心がキリストから離れてしまいそうになる、そこに働いている罪の力との戦いです。祈りをもって、この戦いに生きているものにとっては、日々が、自分自身に死に、キリストに生きる証しの生活となります。取り繕って、キリスト者らしくするのではない。疑いや不真実が支配しているかのようなこの時代のただ中にあって、信仰のゆえに不利益を被るようなこの世界のただ中にあって、心の中でいつもキリストを主と崇めている者として生きる。そのことこそが、その存在自体が信仰の証しになるのです。

 以前仕えていた教会の牧師室に、星野富弘さんのカレンダーを掛けていたことがあります。きれいな絵に添えて、こういう言葉が記されていました。星野さんの独特な素朴な筆で書かれています。「鏡に映る顔を見ながら思った。もう悪口をいうのはやめよう。私の口から出たことばを、いちばん近くで聞くのは、私の耳なのだから」。心に刺さりました。今でも、忘れられない言葉です。そこから一歩進んで、聖書のみ言葉の鏡に映して見るならば、私たち自身よりも、私たちに近いところにイエス・キリストがいてくださることを知るのではないでしょうか。
 キリストはすべてを聞いておられ、すべてを見ておられます。この方の前で、一時だけ、あるいは表面だけ、取り繕ってみても何の意味もありません。しかし、私たちは、この方の信頼に満ちたまなざしの下で、変えられていくのです。変わっていけるのです。もちろん、変えられない現実もあります。治らない病もあるでしょう。癒されない苦しみもあるかもしれません。若い日に戻ることもできない相談です。けれども、私たちは神の御手の中で、すべてを受け入れ、苦難をも受け入れながら、キリストを主と崇めて生きるのです。

 確かな計画をもって、私たちの人生を導いておられる方があります。この神の御心に従って生きようとするとき、苦難を受けることがある。そのとき、自分自身ではなく、キリストを仰ぎ見ます。苦難の相手ではなく、主イエス・キリストを見るのです。キリストは、私たちを信仰に導くために、苦難を引き受けてくださいました。この主のゆえに、主のために苦難を受けるならば、それは光栄なことです。主の弟子と呼ばれるにふさわしいものとされたことを喜びたいと思います。私たちは、キリストを信じ、キリストを証しする歩みへと招かれているのです。人の顔色を恐れる必要はありません。ペトロは言います。「ただ、心の中でキリストを主と崇めなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるよう備えていなさい」。
 私たちがなしうる善いことというのは、いつ、どのようなときにも、キリストを主と崇める信仰をもって、キリストの御心に従うことです。ペトロは言います。「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむほうが、悪を行って苦しむよりはよいのです」。神の約束を信じて、苦難の中にあっても、キリストを主と崇める。今、肉の目には見えなくても、霊において私たちと共にいてくださるキリストが、終わりの日には、再び天から降って来られ、私たちの救いを完成してくださいます。キリストに対する信仰と望みをもって、与えられた交わりの中で、愛の証しに生きる者でありたいと願います。