2026年1月4日 新年礼拝説教「祭司の王国に生きる」 東野 尚志牧師
出エジプト記 第19章1~6節
ペトロの手紙一 第2章1~10節
主の年2026年、最初の主の日の礼拝に、ようこそお出でくださいました。皆さまを心から歓迎いたします。先週の木曜日、1月1日の元旦礼拝で、すでにお目にかかって、新年のご挨拶を交わした方たちもおられます。年が明けて、今日、初めて教会に来られた方も大勢おられると思います。新しい年の歩みの上に、主の祝福をお祈りします。
この同じ場所で、クリスマスのお祝いをしたのは、ほんの2週間前のことです。礼拝堂の中には、まだベツレヘムの星が輝いており、クリスマス・ツリーもあります。さすがに、蝋燭はありませんけれども、クリスマスのリースは、同じ場所に立てかけられています。年末年始が慌ただしくて、片付け損なったということではありません。年が明けても、クリスマス・シーズンは続いています。私たちは、クリスマスの光に照らされながら、新しい年を迎えたのです。
日本では、12月25日を過ぎると、クリスマスの飾り付けはあっという間に片付けられて、お正月の装いに変わります。けれども、いわゆるキリスト教国では、1月6日までクリスマスの飾り付けを残しておく習慣があります。ご存じの方も多いと思います。明後日、1月6日は「公に現れる日」と書いて、「公現日」と呼ばれます。東の国の博士たちが幼子イエスを訪ねて礼拝したことを記念するのです。「公現祭」、「顕現祭」と呼ばれることもあります。異邦人たちへの救い主の顕現を祝う日とされるのです。東方の博士たちは、私たちすべての異邦人を代表するようにして、幼子イエスの前にひれ伏しました。自分たちの全財産ともいうべき、黄金、乳香、没薬を主に献げました。私たちも、主の日毎に、救い主の前に膝を屈めるようにして、私たち自身を主にお献げします。この新しい年も、七日ごと、主の日から主の日へ、礼拝から礼拝へと、主に結ばれた者としての歩みを刻んでいきたいと願います。
さて、新しい年の最初の主の日、新年礼拝のために選んだのは、ペトロの手紙一、第2章の言葉です。昨年の4月の初めからずっと、週報を開いたところに、第2章9節の言葉を掲げています。「二〇二五年度 年間聖句」と記してあります。確かに、1月は新しい年の最初の月ですけれど、年度の区切りでいえば、4分の3を終えたところです。2025年度はまだあと3ヶ月、3月の終わりまで続きます。その意味では、新しい年を迎えたと言って浮かれているわけにはいきません。むしろ、2025年度の歩みを締めくくる、大事な時を迎えているのです。その評価と反省を踏まえながら、3ヶ月後、2026年の4月から始まる新しい年度の歩みに備えて行くことになります。それで、この新しい年の初めに、改めて、もう一度、2025年度の年間聖句をご一緒に味わいたいと思いました。
昨年の礼拝の中で、すでに何度か読んだ御言葉です。覚えておられるでしょうか。8月に行われた夏期修養会は、「新しい神の民―恵みと祝福のうちに生きる―」と題して、軽井沢で、3日間の学びをしました。それに先立って、6月29日の日曜日に、今日と同じ聖書箇所を取り上げて、「神の民として生きる」という説教題で語りました。その日の礼拝に引き続いて、修養会に備えるため、また修養会に参加できない人たちにも学びを共有していただくために、「年間聖句をめぐる教会全体の学び」をしました。そして、本番の夏期修養会では、主題をめぐる学びと協議を重ねた上で、東京に戻り、8月の終わりから9月にかけて、主題の聖句である第2章1節から10節をさらに細かく区切って、1節から3節、4節から8節、9節と10節と、3回に分けて説教しました。そうやって、何度も何度も読んできたところを、もう一度、読みたいと思いました。新しい年の初めに、この年度を通して取り組んできた課題を思い起こしたいのです。もう終わったこと、過去のことにしてしまわないためです。学んだことが、本当に私たちの身についているかどうか、問い直してみたいのです。
「あなたは誰ですか」という子ども向けのカテキズムの言葉をご紹介したことがありました。カテキズム、信仰問答書です。その最初の問いが「あなたは誰ですか」というのです。答えは、「わたしは神さまの子どもです」と続きます。さらに、神さまの子どもということをめぐって、問答を重ねていくのです。それならば、ペトロの手紙一の第2章1節から10節の御言葉を踏まえるとき、私たちはどのように答えることができるのでしょうか。年間聖句として掲げられている2章9節の言葉によれば、「あなたは誰ですか」と問われたとき、「私たちは、『選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民』です」と答えることができるようになるのだと思います。さらに突き詰めて言えば、「私は祭司です」、そのように答えることができるようになる、ということなのです。「祭司」とは何でしょうか。祭司というのは、神と人との間に立って、神と人との間に絆を作る務めです。「祭司」の務めを理解するとき、鍵になる言葉として学んだのは「執り成し」ということでした。神と人との間に立って、神に対して、人のために執り成しをするのです。
お正月の三が日、神社やお寺に初詣に出かけた日本人は大勢いると思います。渋谷にある明治神宮は、毎年、初詣の参拝者が300万人を超えるそうです。川崎大師の平間寺(へいけんじ)は約300万人、鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮は250万人、大宮の氷川神社でも200万人を超える初詣の参拝者が集まります。神社に行けば神官がいます。お寺に行けば僧侶がいます。そして、教会に行けば、司祭や牧師がいるわけです。神社に行って、お賽銭をあげて、神主さんにお祓いをしてもらう。祝福を受けるためです。あるいはまた、お寺に行って、お坊さんにお経をあげてもらう。お坊さんがいないと法事もできません。それと同じように、教会へ行けば、牧師が神さまの言葉を取り次いでくれて、自分たちのために祝福を祈ってくれる。私たちは、案外、そんなふうに考えているのではないかと思います。教会で「祭司」の務めと言えば、それは牧師が担うものだと思っているのです。確かに、聖餐の司式をすることができるのは、牧師だけとされています。けれども、ペトロの手紙をきちんと読めば、少し違うということが分かるのではないでしょうか。ペトロは、使徒や教師たちだけが祭司なのではなくて、牧師も信徒も、皆が祭司だと告げているのです。
宗教改革者ルターは、教会改革の要となる原理を掲げて言いました。「聖書のみ」、「信仰のみ」、「万人祭司」。宗教改革の三大原理と言われます。いずれも、当時のローマ・カトリック教会のあり方に対して、異を唱えるものでした。改革の争点になりました。ローマ教会は、教会の言い伝えや伝統に聖書と同等の権威を認めて、言い伝えに基づいて聖書を解釈していました。それに対して、ルターは、聖書と伝統ではなくて、聖書のみだと言いました。聖書は聖書によってのみ正しく解釈されると教えました。信仰も大事だけれども、行いも大事だと教えるローマ教会に対して、行いではなく信仰のみだと言いました。信仰によってのみ義とされる。「信仰義認」という言葉は、改革の旗印になりました。そして、ローマ教会が、いわゆる教職者・聖職者と信徒を厳しく分けて、ミサを行うのは司祭であって、信者はただそれにあずかるだけだと位置づけたのに対して、ルターは、万人祭司、より正確に訳せば、全信徒祭司を掲げました。カトリック教会では、司祭と呼ばれる者が、いつも神と人の間に立って執り成しをします。それに対して、ルターは、司祭が執り成してくれなければ、神の前に立てないというのはおかしいと言ったのです。司祭に祈ってもらわなければ自分ではどうすることもできないなんてことはない、と訴えたのです。
確かに、旧約の時代には、大祭司が神の前に動物の犠牲を献げて、犠牲の動物に人間の罪を負わせることで、罪の赦しのための祭儀が行われました。けれども、動物が完全に人間の身代わりになることはできません。動物の犠牲の有効期間は一年だけでした。だから、毎年毎年、犠牲を献げ続けなければならなかったのです。ところが、まことの大祭司である主イエス・キリストが、ただ一度、犠牲の動物の血ではなく、ご自身の血を注いで、永遠に罪の贖いを成し遂げてくださいました。だから、私たちは、イエス・キリストの命の犠牲によって、はばかることなく、神の前に出られるようになったのです。キリストとひとつに結ばれたキリスト者は、みな同じようにキリストの恵みを受けて、主イエス・キリストから祭司の務めをいただいています。だから、お互いに祭司の務めを果たすことができるし、神に逆らうこの世のために執り成す務めを負っているのです。
同じ聖書箇所を取り上げた昨年6月の礼拝では、「神の民として生きる」という説教題を掲げました。今日は、「祭司の王国に生きる」としました。聖書協会共同訳では、「王の祭司」と訳されています。新共同訳聖書では「王の系統を引く祭司」、口語訳では「祭司の国」と訳されていました。ちなみに、新改訳2017では「王である祭司」となっています。これが一番、聖書のもとの言葉に近いかも知れません。王と祭司の務めを兼ね備えているというのです。「王」というのは、君主であって、何者にも従う必要のない、自由な人間を意味します。「祭司」は、神と人の間に立って、執り成しをするのですから、神に仕えると同時に、人にも仕える務めです。普通に考えれば、「王」であることと「祭司」であることが、同時に成り立つことはあり得ません。けれども、まさにそこにこそ、ルターが語った「キリスト者の自由」があると言って良いのではないでしょうか。
ルターは、『キリスト者の自由』と題する小さな書物において、2つの命題を掲げます。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」。「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」。それは、キリストご自身に合わせられた生き方だと言って良いのだと思います。キリストは、神の独り子であり、すべてのものを支配するまことの王です。しかし、まことの王であるお方が、神と私たち人間の交わりを回復するために、ご自身の命を犠牲として献げてくださいました。神と私たちの間を引き裂いた、私たちの罪を取り除いて、神と人との和解を実現するために、ご自身の血を注いで、贖いの供え物となさったのです。このキリストの犠牲による執り成しにあずかって、私たちの罪は赦され、はばかることなく父なる神の前に出ることができるようになりました。主イエスは、私たちを救うために、ご自身の命を捨てるほどに、私たちを愛してくださっています。私たちを大切に受けとめていてくださるのです。このキリストの愛を信じて、キリストとひとつに結ばれたキリスト者は、まさにキリストのものです。私たちのための救いを成し遂げて、天に帰られたキリストに代わって、この地上でキリストの業を担う者とされているのです。
ルターは、私たちキリスト者は「小さなキリスト」であると言いました。ルターがとても愛した言葉であると言われます。もちろん、私たちは、イエスさまと同じ姿にはなれません。等身大のイエスさまには到底及びません。それでも、小さなキリストには、なれる。天に昇られ、今は父なる神の右の座についておられるキリストに代わって、私たちの側近くにいる人たちのために「小さなキリスト」となることができる。私たち一人ひとりが、誰かのための「小さなキリスト」となって、執り成しの務めを担うことができます。「あなたは誰ですか」と問われたら、「私は小さなキリストです」と答えてよいのです。それこそは、私たちが祭司となって、祭司の王国に生きる道だと言ってよいのではないでしょうか。
主イエスは、ご自身が人々から見捨てられ、捨てられた石となることで、かえって、教会の土台の石となってくださいました。この世で、役に立たない、見捨てられた石のような私たちであっても、生きた石となられた主イエスを土台として組み合わされていくとき、私たちもまた生きた石として用いられます。ペトロの手紙は告げています。「あなたがた自身も生ける石として、霊の家に造り上げられるようにしなさい。聖なる祭司となって、神に喜んで受け入れられる霊のいけにえを、イエス・キリストを通して献げるためです」(2章5節)。そうです、「聖なる祭司」、つまり、神の祭司となって、神と世の人々の間に立ち、さらには、人と人との間に立って、平和を造り出すために仕えて行くのです。
和解の務めを担っていくためには、私たちの間から捨て去るべきものがあり、求めるべきものがあります。ペトロの手紙は語ります。「だから、一切の悪意、一切の偽り、偽善、妬み、一切の悪口を捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じりけのない乳を慕い求めなさい。これによって成長し、救われるようになるためです」(2章1~2節)。悪意や偽り、偽善、妬み、悪口、いずれも、人と人との関係を引き裂く悪しき言葉です。関係を壊す言葉を捨て去って、理に適った、混じりけのない乳を慕い求めよ、と言われます。「理に適った」と訳されているのは、神の言を表わす「ロゴス」から生まれた形容詞です。以前の翻訳では、「霊の乳」と訳していました。私たちを養い育てる「神の言」と理解しても良いのではないでしょうか。キリストのものとされた私たちは、キリストの言によって養われます。見えない神の言葉としての御言葉の説教と、見える神の言葉としての聖餐によって養われ、小さなキリストとして成長していくのです。
「あなたは誰ですか」。そのように問われたら、ぜひ、笑顔で答えてください。「私たちは祭司の王国です」。「私は祭司です」。「私は小さなキリストです」。神の言葉であるキリストが、霊において私たちのうちに宿ってくださるとき、私たちは、人を傷つけ、関係を引き裂く言葉ではなく、人を慰め、人を生かす命の言葉を語る者とされるのです。私たちの間に、そして、この世界に、平和を造り出す言葉、和解の福音を響かせていきたいと願います。私たちを「闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方」が、今、私たちと共にいてくださいます。そして、私たちを命の食卓に招いてくださっているのです。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わったはずです。主のもとに来なさい」(2章3~4節)。主イエスというお方には、味があるのです。恵みという美味しい味をもっておられます。その主イエスの恵みの美味しさ、うまさを、私たちはすでに味わったのです。祭司になりなさい、小さなキリストになりなさい、と言われているのではありません。主の恵みの美味しさを味わい知った私たちは、祭司とされているのです。小さなキリストとして、この世に遣わされているのです。
遣わされたところにおいて、驚くべき神の救いの御業を伝えようとしても、誰も耳を傾けてはくれないかもしれません。けれども、背を向けてしまっている人のためにも、私たちは祈ることができます。その人のために、その人に代わって、神の前に立つ。一緒に教会に来てくれない家族のために祈り、その家族に代わって、神の前で礼拝を献げることができます。私たちはそのようにして、主イエスご自身の業にあずかり続けるのです。もちろん、私が代わりに礼拝に出ているから、あなたは来なくても良い、来なくても大丈夫、ということではありません。適うことなら、一緒に主の前に立ちたいのです。今は心を閉ざしていても、真実に生きようとするときには、誰にとっても主の救いは必要なのです。私たちは、自分のため、自分の満足のために礼拝をしているのではありません。家族のため、友人のため、そして、世界の救いのために、祭司の務めを担っているのです。何人にも従属しない自由な王として、同時に、すべてのものに奉仕する僕として、キリストの道を生きるのです。

