2025年11月30日 アドヴェント第一主日礼拝説教「祝福を受け継ぐために」 東野 尚志牧師

詩編 第34編12~23節
ペトロの手紙一 第3章8~12節

 主の年2025年も、残すところあとひと月となりました。明日から1年の最後の月、12月に入ります。あとひと月を過ごせば、新しい年を迎えることになるのです。けれども、キリストの教会は、この世の暦に先立って、約一か月早く、新年を迎えることになります。クリスマスに備えるアドヴェントから、教会の新しい一年の歩みが始まるのです。今日は、アドヴェント第一の主日です。アドヴェントクランツの蝋燭に、1本だけ火が灯りました。来週は2本になります。そして3本、さらに4本の蝋燭に火が灯ると、クリスマスの祝いの日を迎えることになるのです。
 この季節、アドヴェント・カレンダーを用意している人もあると思います。ただし、アドヴェントの始まる日が年によって違うので、アドヴェント・カレンダーは、たいてい12月1日から始まるようになっています。12月に入ると、毎日、ひとつずつ窓を開けていって、最後、24日の窓を開けるとクリスマスを迎えることになるわけです。一日に一つずつ窓を開けていくことで、あたかも指折り数えるようにして、クリスマスを迎える心を整えていくのです。

 今日、私たちに与えられた御言葉は、クリスマスを迎える心を備えるのに、とてもふさわしい響きを奏でていると言ってよいと思います。先ほど朗読したペトロの手紙一、第3章8節と9節の言葉をもう一度、お読みします。「最後に言います。皆思いを一つにし、同情し合い、きょうだいを愛し、憐れみ深く、謙虚でありなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです」。「最後に言います」と告げられています。けれども、これで手紙が結ばれるわけではありません。手紙はまだ続きます。「最後に」と訳されている「テロス」というギリシア語は、確かに、終わりを意味する言葉です。けれども、その終わりは、究極的な目標、完成という意味をも合わせ持っています。
 振り返って見れば、ペトロは、ここに至るまで、神の民に加えられたキリスト者の具体的な生き方について説いてきました。召し使いたちに対する教えがあり、妻たちに対する教えがあり、短く夫たちに対する教えも語られてきました。洗礼を受けて、キリストのものとされたとは言っても、社会の中ではそれぞれに、いろいろな立場や役割があります。キリスト者になっても、この世での生活は続くのです。ペトロは、それぞれが置かれた具体的な状況に合わせるようにして、生きる道を説いてきました。そして、その終わりに、それぞれの立場を越えて、どのような立場に置かれている人であっても、キリストのものであるならば、誰もが目指すべき究極的な目標を記そうとしているのです。

 ここに5つの言葉が告げられています。「思いを一つにするように」「同情し合うように」「きょうだいを愛するように」「憐れみ深くあるように」、そして、「謙虚であるように」と言います。厳しい迫害を受けながら、教会の交わりの中で生きようとしていた信徒たちに、まず、何よりも「思いを一つに」にするようにと語ります。いったい、私たちはどうしたら、思いを一つにすることができるのでしょうか。同じ教会に連なっているといっても、生まれも育ちも違う私たちです。好みや感じ方も一人ひとり違います。政治的な立場や考え方も決して同じではないはずです。そういう中で思いを一つにするというのは、いろんな違いを抱えながらも、良く話し合って一致点を見いだすようにしなさい、ということでしょうか。確かに、話し合うことは大事です。けれども、話し合えば一致するのでしょうか。むしろ、話し合えば話し合うほど、お互いの違いを思い知らされることもあるのではないでしょうか。
 さまざまな違いがある中で、私たちが思いを一つにすることができるのは、誰の心の中にも、キリストに対する思いがあるからではないでしょうか。キリストはどのようなお方であるのか、キリストは私たちのために何をしてくださったのか、ということを真剣に考えていくとき、私たちの思いは一つに結ばれていくのです。キリストを同じように信じ、キリストを同じように告白し、キリストを同じように礼拝する。私たちに求められている「一つ」は、キリストに対して告白する信仰の一致なのです。そこに本当の「一つ」があります。礼拝において、ただ一人の神さまへと向かうとき、私たちの思いと言葉は一つになるのです。それ以外のことは、どんなに違っていても構いません。それ以外のことで一致するなんて、夢のような話かも知れません。けれども、キリストへの信仰において一つになるとき、私たちは、思いを一つにすることができます。礼拝において、同じキリストのお姿を共に仰ぎ見るようになるのです。

 信仰において一つになるようにと語られた後、愛に生きる生き方が三つの言葉で綴られます。「同情し合い」「きょうだいを愛し」「憐れみ深く」生きるのです。「同情する」と訳されているのは、シンパシーという英語のもとになった言葉です。日本語で「同情する」と訳してしまうと、相手のことを可哀想だと思うというような、上から目線の薄っぺらい感情に思えてしまうかもしれません。しかし、本来、シンパシーというのは、パトス、つまり苦難を共にすることを意味します。考え方や感じ方は違っていても、苦しむ人の傍らに寄り添って、その重荷を共に負うのです。それこそが本物の同情です。そんなこと、本当の意味で、私たちにできるはずがありません。ただ主イエスだけが、苦しむ者の傍らに寄り添って、その苦しみをすべて代わって引き受けてくださいました。私たちの苦しみをご自分のものとしてくださったのです。そして、私たちを「きょうだい」と呼んで、愛し抜いてくださいました。
 「憐れみ深く」と訳されている言葉は、内臓、はらわたを意味する言葉からできています。神さまの憐れみは決して言葉だけのものではありません。罪のために苦しみ呻きながら、罪の痛みと悲しみに耐えている人の傍らで、自分のお腹が痛くなるほどに、その悲しみを受けとめてくださいました。主イエスこそは、罪を抱えながら傷つき呻いている私たちを、本当に深く憐れんでくださったのです。そして、私たちの罪をご自身に背負ってくださいました。私たちの身代わりとなって、私たちの罪をすべて引き受けてくださったのです。そのために、主はへりくだって、僕(しもべ)の形をとってくださいました。神の独り子であり、まことの王である方が、へりくだった柔和な王として、この地上に来てくださったのです。飼い葉桶の中に寝かされる乳飲み子として、この世に生まれてくださいました。ペトロは、いくつもの言葉を重ねながら、救い主である主イエス・キリストのお姿を思い起こさせます。憐れみ深く、思いやりに満ちた、柔和なお姿を描きながら、このキリストのあとに従い、キリストのように生きる道を指し示すのです。キリストのように信じ、キリストのように愛し、キリストのように仕える道を指し示します。それこそが、イエス・キリストに結ばれて、新しく生まれた者の生きる道だと言うのです。

 教会において、兄弟姉妹として共に生きる道を描いたのに続けて、ペトロは教会の外にいる人たちに対して、時には悪意や敵意をもって迫害してくる人たちにどのように対応するのかを語ります。9節です。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです」。第2章23節で、ペトロはキリストご自身のことを、次のように描いていました。「罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました」。キリストご自身がそうだったのです。悪をもって悪に報いることをなさらず、鞭打たれ、唾をかけられ、侮辱されても、へりくだって、すべてをそのままに引き受けながら、十字架への道を歩まれました。そして、私たちのすべての罪を背負って、私たちの身代わりとなって十字架にかけられ、ご自身の命を犠牲にして、すべての罪の贖いをなしとげてくださったのです。
 主イエスは、十字架の上で死なれ、墓に葬られ、3日目に墓の中からよみがえられました。そして、弟子たちに現れ、弟子たちを教え力づけて、天へと帰って行かれました。ルカによる福音書は、その最後に、弟子たちを集め、弟子たちに教え、天に上げられる主イエスのお姿を記しました。ルカによる福音書第24章45節以下です。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる。』あなたがたは、これらのことの証人である。私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい。」それからイエスは、彼らをベタニアまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」。主イエスは、弟子たちを祝福しながら、天へと昇って行かれました。ご自身の祝福を、弟子たちの群れに託して行かれたのです。弟子たちは、主の言葉に従って、なおもエルサレムに留まり、一つの家に集まり、約束された聖霊を待ち望みました。そして、ルカによる福音書の続編である使徒言行録が記しているように、五旬祭、ペンテコステの日、弟子たちの群れに激しく聖霊が臨み、様々な国の言葉で福音を語り始めました。弟子たちの群れである教会は、主イエスの祝福を担う群れとして、祝福を告げ、救いの言葉を宣べ伝えるのです。

 人間が、自分たちの力を頼りにして、それを誇り、自分たちの名を上げるために、天にまで届くような高い塔を建てようとしたとき、神さまは人間の言葉を乱してしまわれました。旧約聖書の創世記、第11章に記されたバベルの塔の物語が告げているのです。互いに言葉が通じなくなった者たちは、心を通わせることもできなくなり、散り散りバラバラになりました。そして、全地に散らされていったのです。けれども、主イエスによって、神の祝福を担う群として召し集められ、天からの聖霊の力に満たされたとき、言語の違いを超えて、神が与えてくださる救いの言葉によって、心を通わせ、思いと言葉を一つにすることができました。それが、あの最初のペンテコステの日に起こった出来事なのです。
 「祝福」と訳されるギリシア語は、言葉の成り立ちから言えば、「良い言葉」という意味になります。まさに、救いを告げる神の良い言葉によって満たされ、神の良い言葉を喜んで聞き、神の良い言葉に生かされる。自らも神に対する良い言葉として、感謝の祈りを献げ、隣人の救いに役立つ良い言葉を語る。そこに、神の祝福に生き、神の祝福を担う教会の姿があります。

 ペトロは、詩編第34編の言葉を引用して、神の祝福に生きる道を指し示しました。「命を愛し 善い日々を過ごしたい人は 悪から舌を 欺きの言葉から唇を守れ。悪から離れ、善を行え 平和を求め、これを追え。主の目は正しい者に注がれ その耳は彼らの祈りに傾けられる。主の御顔は悪を行う者に向けられる」。悪から自分の舌を守り、欺きの言葉から唇を守り、そうやって悪しき言葉ではなく、神の良い言葉を語るように、神の良い言葉を心に宿らせ、平和の交わりを築くようにと御言葉は教えます。主は見ておられるからです。主は聞いておられるからです。主は生きておられます。確かに、私たちの目で、そのお姿を見ることはできません。けれども、主は生きておられ、私たちの間に共にいてくださいます。神の良い言葉として来られたキリストが、今、霊において、私たちの間に共におられるのです。
 ある人が言いました。「信仰生活というのは、私たちの生活を、全く神を相手とする生活に変えることである」。深く心に留めたい言葉です。私たちの社会生活は、いろいろな人と顔を合わせながら、いろいろな人と交わり、時にぶつかり合いながら、日々の歩みを続けています。しかし、そういう中にあって、信仰の生活は、私たちが、全く神を相手とする生活を中心に据えることから始まります。もちろん、全く神を相手とするからといって、人との関わりをやめるわけではありません。むしろ、私たちが隣人と共に生きる、そのすべての時が、神さまとの交わりの中にあることを認めるのです。神の前に生きる時と、人の間で生きる時を分けてしまってはならないということです。私たちが、人の間で生きているとき、さまざまな悩みや苦しみを抱えながら、あるいは争いをも身に受けながら、必死に生きている時もすべて、神の前に生きる時なのです。神と共にあり、神との交わりの中に置かれている時なのです。
 なかには不愉快な思いをさせる相手もあります。しかし、自分もまた相手に不愉快な思いをさせることがあるかもしれません。そのすべての時を、すべての交わりを、神のまなざしのもとに置きながら、神の良い言葉を担って生きるのです。悪しき言葉を語らない。偽りの言葉を語らない。人を傷つけ、人をつまずかせ、人を貶めるような言葉を口にしない。そうではなく、神をほめたたえ、神に祈りながら、神の言葉によって人を慰め、立ち上がらせ、勇気づけていくのです。神の良い言葉を担って生きる。神が生きて、私たちの間に働いておられることを信じるからです。教会から外に出て行って、この世の難しい問題に直面しながら、人と争わなければならないような時も、神は共にいてくださいます。すべての時を神が支配してくださり、私たちの語る言葉を神が聖めてくださる。なぜなら、霊なる主が、私たちの内に住んでくださるからです。

 ペトロは詩編第34編の13節以下を引用しました。引用箇所の直前に記されているのは、私たちが、聖餐を祝う礼拝の中で、繰り返し耳にしてきた言葉です。「味わい、見よ、主の恵み深さを。幸いな者、主に逃れる人は」(34編9節)。最後のところを、新共同訳聖書は次のように訳しました。「いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」。私たちは今、主イエスによって招かれて、主の恵みの食卓を囲んでいます。主のもとに逃れるようにして、御もとに身を寄せているのです。ここに、救いの命があふれています。神の祝福の言葉が、見える形をとってここにあるからです。祝福を味わい、祝福を担い、祝福の言葉を語りつつ、祝福を受け継ぐ民として歩むために、今私たちも、神の民の交わりの中に生かされているのです。