2025年11月16日 主日礼拝説教「無言の振る舞いによる証し」 東野 尚志牧師
詩編 第33編12~15節
ペトロの手紙一 第3章1~7節
先ほど、ペトロの手紙一の第3章1節から7節の御言葉を読みました。この聖書の御言葉が朗読されるのを聴きながら、すでに私たちの心の中には、さまざまな思いが沸き起こってきているのではないかと思います。「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と始まります。この後、6節までは、妻たちに対する勧めの言葉が続きます。そして、7節で「同じように、夫たちよ」と言って告げられる勧めの言葉はわずか1節だけです。妻に対しては、多くの要求が突きつけられるのに、夫に対しては、わずか1節。不公平ではないか、そんな声が聞こえてきそうです。勧告の中身を見ても、妻に対しては、夫に従え、と言って、まるで奴隷のように夫に従うことが求められているのに対して、夫に対しては、妻を尊敬しなさい、というだけで、要求が軽いのではないか、女性差別も甚だしい、そんな批判の声が聞こえてきそうです。実際、20世紀後半、男女同権、女性解放が叫ばれる中で、この聖書の箇所は、時代遅れ、時代錯誤の勧めとして、あまり真剣に読まれなくなって来たのではないかと思います。
教会生活が長い方たちは、覚えておられるのではないでしょうか。かつて、この聖書の箇所は、教会の結婚式の中で、良く読まれてきた御言葉でした。口語訳の「式文」に従えば、教会の結婚式で、夫と妻が互いに結婚の誓いを述べる前に、「夫婦の務めに関する聖書の教え」が朗読されることになっています。そこで読まれる聖書箇所として、このペトロの手紙一第3章1節から7節が挙げられているのです。これと並んで記されているのは、エフェソの信徒への手紙第5章の御言葉です。そこには、こうあります。「キリストに対する畏れをもって、互いに従いなさい。妻たちよ、主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」(5章21~25節)。もう今から40年近く前のことになりますけれども、日本基督教団の中で、このエフェソの信徒への手紙の言葉は女性差別だから、結婚式の式文から削除するようにという声が大きくなりました。その後、新しく出た式文の「試用版」からは、結婚の誓約に先立つ「夫婦の務めに関する聖書の教え」という項目自体がなくなっています。ペトロの手紙一の第3章の言葉も、エフェソの信徒への手紙第5章と共に、結婚式の式文の中から削除されてしまったのです。
確かに、時代の変化と共に、社会のあり方や人間の生活はずいぶん変わって来ました。結婚の生活や親子の生活、家族のあり方も変化してきました。今から二千年近く前、聖書が書かれた時代とは、家族の形、夫婦の形も大きく変わったと言って良いと思います。古代のユダヤ人社会は、ギリシアやローマの社会と同じように、いわゆる家父長主義的な家族の形態を取っていました。家父長制という言葉を辞書で引くと、こういう説明がなされています。「家父(家の父)・家長が家族全員に対し支配権をもつ家族形態。奴隷制社会、封建制社会に見られる」。私たちが手にしている聖書は、家の中で家長が絶対的な権力を持っており、家の中に奴隷がいた時代に書かれたものです。そのような家族形態の中で、妻は夫の所有物のように見なされ、そのような扱いを受けていたと言われます。人権とか、男女平等といった理念とはほど遠い社会の現実がありました。家の中の奴隷は、主人に服従する義務があり、妻たちもまた、夫に従うことが義務であり、社会的な秩序の大前提とされていたのです。聖書もまた、そのような社会の現実を前提として書かれています。そのような社会の構造そのものを一気に変革しようとはしていません。それは、今日の視点に立てば、理不尽であり、差別的であり、受け入れがたいものと思われるかもしれません。だからと言って、聖書の言葉そのものを時代遅れであり差別的だと言って、遠ざけてしまい、無視してしまってよいのでしょうか。
私たちは、時代の変化に惑わされることなく、聖書が説いている真理をしっかりと捉えなければならないのだと思います。確かに、家族の形や結婚のあり方、夫婦の形も時代と共に変わって行くかも知れません。いや変わってきたのです。けれども、聖書は、どのような時代の夫婦の生活の中においても、変わることのない真実を告げているのではないでしょうか。どのような時代にあっても、どのような社会においても、イエス・キリストを信じて、福音によって生きる道を描き出そうとしているのです。大事なことは、社会制度でもなければ、家族制度でもありません。いつの時代であっても、そこには、制限や不自由が伴います。この社会や制度の中にも、人間の罪が働いているからです。人間の罪が染みついているのです。しかし、私たちは、究極的には、天の故郷を目指す巡礼者・旅人として、この地上にあっては一時的に滞在する寄留者として、この世の支配から解放され、自由にされた者として生きる。強いられて嫌々従うのではなく、喜んで選び取り、従って行く、その先には、イエス・キリストのお姿が見えているからです。
「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と告げられます。「同じように」というのはどういうことでしょうか。この直前で告げられていたのは、家の奴隷として主人に仕える召し使いへの勧告でした。第2章の18節で告げられます。「召し使いたち、心から畏れ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、気難しい主人にも従いなさい」。そして、不当な苦しみを受けてもそれを耐え忍ぶことを求める中で、十字架への道を歩まれた主イエス・キリストのお姿を描きました。キリストはそのようにして、ご自分の後に続くようにと模範を残されたのだと言いました。つまり、召し使いたちには、自分の主人に従うことを通して、主イエス・キリストに従い行くことが求められており、召し使いたちと同じように、妻たちも、自分の夫に従うことを通して、主イエス・キリストに従い行く道につながっていくのです。この後、夫たちに対する勧めもまた、「同じように、夫たちよ」と告げられています。夫たちもまた、召し使いや妻たちと同じように、主イエス・キリストに従い行く道へと招かれているのです。
聖書協会共同訳になって、「従いなさい」と訳されるようになりました。この言葉は、以前の口語訳聖書では、「仕えなさい」と訳されていました。聖書は、召し使いと主人の関係や、妻と夫の関係をとりあげながら、それぞれの置かれた立場は違っても、信仰によって「仕える」生き方を求めています。それはすべて、主イエス・キリストが、私たちに仕えてくださったという模範に倣うものだと告げるのです。先に引用したエフェソの信徒への手紙第5章においては、妻たちに対して、「自分の夫に従いなさい」と勧め、夫たちに対して、「妻を愛しなさい」と勧める大前提として、最初に語られています。「キリストに対する畏れをもって、互いに従いなさい」。「互いに従いなさい」、「互いに仕え合いなさい」ということです。お互いに仕え合う。キリストに対する畏れをもって、イエス・キリストを信じ愛するがゆえに、お互いに仕え合う。そういう生き方が求められているのです。
キリストの救いを受けた者たちに、救われた者の生き方を示そうとするとき、聖書は、「妻たちよ」「夫たちよ」、宛名を示して具体的に語っています。エフェソの信徒への手紙を見ると、さらに「子どもたち」「父親たち」と語りかけます。また「奴隷たち」というだけでなく、その「主人たち」にも語りかけるのです。私たちは、こういう箇所を読むとき、間違えてはならないと思います。結婚している妻たちは、「妻たちよ」と語っている言葉は、自分に語られた言葉として聞くけれども、「夫たちよ」と語る言葉、これは自分のパートナーに聞かせればよい。妻でも夫でもない人たち、つまり、結婚していない人たちは、ここは自分とは関係のない話を語っていると思って、読み過ごす。結婚したら、改めて読み直せばよいと思う。あるいは、自分はもう子どもでもなければ、父親でもない、奴隷でもないし、奴隷の主人でもない。そういう人たちは、読まなくて良いというわけではないのです。むしろ、さまざまに変化していく社会の中で、それぞれの立場に自分を置いてみながら、御言葉を味わうことが大事なのです。
妻ではない者が、妻の立場に身を置いて考えてみる。さまざまな立場に身を置いてみながら、イエス・キリストに倣って仕える生き方はどのように導かれ、どのような実を結んでいくのかを考える。何よりも、キリストによって自由にされた者が、さまざまな制限や不条理に満ちた社会の中で、福音に従って御言葉を生きていくとき、神さまがどのような祝福を見せてくださるかを思い描いていくのは、楽しいことではないでしょうか。
聖書は告げています。「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ御言葉に従わない夫であっても、妻の無言の振る舞いによって、神のものとされるようになるためです」。「御言葉に従わない夫」というのはどういう人を指すのでしょうか。すぐに思い浮かぶのは、妻だけがキリスト者である場合でしょう。妻は教会員であるけれども、夫は未信者である場合です。私の両親は、もう二人とも地上にはおりませんが、母は私が生まれる前に洗礼を受けてキリスト者になっていました。しかし、父は小さい頃からお寺に住み込んでお経を習っていた人で、寺は出てしまいましたけれども、お盆のときなど、仏壇の前で目を閉じてお経を唱えているのを聞いた覚えがあります。私も仏教の高校で3年間寮生活をしましたから、般若心経は今でも覚えていますけれど、それとは違うお経であったようです。そんな父が、あるとき、母が毎週日曜日になると教会へ出かけて行くことについて、「お母ちゃんは教会にとられちゃった」と口にしたことがありました。けれども、それは、母を責めるでもなく、教会を恨むでもなく、母の信仰を受け入れながら、楽しそうに語った言葉でした。
子ども心に覚えている母は、朝早く、父が起き出す前に朝食の準備を整えて自転車で教会に駆けつけて、礼拝が終わるとすぐに自転車で家に戻って、父の昼食の準備をしていました。家で、教会の話や聖書の話をすることはほとんどなかったと思います。父は最後まで、洗礼を受けることはありませんでしたけれども、隠退して伊豆に住むようになってから、日曜日に教会まで、母を車で送ったりしていました。私が神学校へ行って牧師になってからは、里帰りして一緒に食卓を囲むと、いつの頃からか、私が食前の祈りを終えると父は「アーメン」と唱えるようになりました。父の葬儀は、伊豆の葬儀社のホールを借りて、私が司式をして礼拝として行いました。その後、認知症を発症していた母を支えるために、独り身になっていた一番上の兄が一緒に生活して世話をしてくれるようになりました。やはり毎週日曜日、礼拝に出席する母を車で送りながら、兄も礼拝に出席するようになり、やがて洗礼を受けて、キリスト者なりました。母が天に召された後も、一人で教会に通っています。長老を務めたりしながら、教会で用いられているのです。
私は、このペトロの手紙の御言葉を読む度に、個人的なことで申し訳ありませんけれど、信仰者として生きた母の姿を思い起こします。「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ御言葉に従わない夫であっても、妻の無言の振る舞いによって、神のものとされるようになるためです。神を畏れ敬うあなたがたの清い振る舞いを見るからです。あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りを身に着けたり、衣服を着飾ったりするような外面的なものではなく、柔和で穏やかな霊という朽ちないものを心の内に秘めた人でありなさい。これこそ、神の前でまことに価値があることです」。「神を畏れ敬うあなたがたの清い振る舞い」。それは何よりも、主の日の礼拝を重んじ、礼拝に生きる姿を指しているのではないでしょうか。何を語るわけでもない。むしろ、無言で主の日の礼拝に出かけて行き、多少、帰りが遅くなって不機嫌になった夫にも仕える。神を畏れ敬い、神の前に生きているその姿が、言葉よりも雄弁に信仰の証しを刻むことになるのです。
ペトロは、そのように生きた信仰の証しの実例として、神に望みを置いた聖なる女たちのことを描きます。アブラハムに従ったサラのことを記します。サラはアブラハムを主人と呼んで、夫に従ったと語り、神を畏れる信仰によって「善を行い、また何事をも恐れない」なら、サラの子どもとなる、と言うのです。弱い立場に置かれており、時には理不尽な夫の言動に堪えながら、神を畏れ敬うゆえに、神以外の何事をも恐れない、と言い切ることができるのです。サラまで遡らなくても、私たちは身近なところに、そのような信仰に生きた証し人、信仰の証人の姿を思い浮かべることができるのではないでしょうか。
ペトロは続けて、「同じように」と語ります。「同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱い器だとわきまえて共に生活し、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」。妻に対しては「従いなさい」と言いながら、夫に対しては「尊敬しなさい」と言われています。果たして、妻への勧めは厳しいけれど、夫への勧めの方が軽いと言えるでしょうか。「従いなさい」と言うのと、「尊敬しなさい」と言うのと、その中身を考えてみたとき、それほど大きな違いがあると言えるでしょうか。妻に対しても、夫に対しても、神の御前で生きる信仰の生活が問われているのです。
「従いなさい」と言われて、単なる上辺だけを繕うのではなくて、心から従おうとすれば、当然、その相手を尊敬しなければできないことではないでしょうか。心の中では相手を軽蔑しながら、嫌々ながら上辺だけ従うというのは、神の御前では通用しません。神はすべてを見ておられ、私たちの心をご覧になる方です。また相手のことを心から尊敬するならば、その相手の存在を重んじるゆえに、喜んで従うということも起こるのではないでしょうか。「妻を自分よりも弱い器だとわきまえ」というところには、うなずけない人がいるかもしれません。昨今では、妻の方が強くて、夫の方が弱々しく頼りないことも多いでしょう。しかし、大事なことは、お互いを大切に受けとめながら、「共に生活」する、ということであり、その中で、「命の恵みを共に受け継ぐ者として」尊敬し、重んじ合うということです。主にあって、一つに結び合わされた交わりにおいて、共に生き、共に命の恵みを受け継いで行くのです。
「そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」と結ばれます。自分自身の祈りの生活が、妻によって妨害されることはないということでしょうか。そうではないでしょう。命の恵みを共に受け継ぐ者として、妻を心から尊敬しているからこそ、妻との共同の祈りの生活が守られるのです。夫婦であっても、家族であっても、ひとりで祈る祈りの生活は大事です。けれども、共に祈りを合わせる共同の祈りは、永遠の命を受け継ぐ信仰の仲間としての祝福に満ちた祈りの交わりです。神の家族とされた者たちの共同の祈りを、大切にして行きたいと思います。
召し使いであれ、主人であれ、妻であれ、夫であれ、キリストのものとされた恵みによって、与えられた交わりの中で、主を礼拝し、主に従う歩みを貫いて、確かな信仰の証しを刻んで行くことができるのです。主のものとされた私たちの信仰を通して、神を仰ぎ、人に仕える生き方を通して、福音に生きる喜びと確かさが、証しされます。その恵みに満ちた歩みへと、遣わされて行くのです。

