2025年9月28日 講壇交換 主日礼拝説教「主は救われる人々を日々仲間に加えてくださった」 聖学院教会 赤田 直樹 牧師
詩編 第133編1〜3節
使徒言行録 第2章41〜47節
「兄弟が共に住むことは 何という幸せ、何という麗しさ」。礼拝の場で顔を上げて見渡すと、キリストにあって家族とされた私たちが、同じ空間に座り、同じ主のみ名を呼んでいる……その現実こそ、詩編133編が歌う恵みだと感じます。血のつながりはなくても、イエス・キリストによって神の家族とされた兄弟姉妹が、今ここに集っている──これは当たり前ではなく、主が招き、結び、守ってくださっている出来事です。
この夏、私の母教会グループ「キリストの教会」の全国大会が川越で開かれました。北海道や沖縄から、そしてアメリカからも参加があり、私に洗礼を授けてくださった宣教師の息子さんもケンタッキー州から来られました。そこで改めて胸に響いたのは、教会の誕生の時に「主は救われる人々を日々仲間に加えてくださった」使徒言行録2章47節)という御言葉です。歴史の中で交わりが分裂する出来事が何度も起こったとしても、主はなお、人を加え続けてこられた──そのことへの感謝でした。
詩編133編は、「共にいる」ことの喜びを、香油や露のイメージで豊かに歌います。けれど同時に、聖書は人間が「共にいる」ことを壊してしまう現実も隠しません。兄弟でさえ争う──カインとアベル、ヤコブとエサウ、そしてヨセフと兄たち。ダビデの家族にも、争いが生じました。兄弟が共に住めない現実が、聖書の物語のいたる所に描かれています。神という垂直の次元を見失ったとき、人は憎しみ、分裂、争いへと傾いていく──それが聖書が映し出す人間の問題です。
この「共にいられない」現実は、昔話ではありません。教会の歴史にも、最初の群れに与えられた一致が脅かされる場面が繰り返しありました。おおまかに言って約500年ごとに大きな分裂が起こっています。451年のカルケドン公会議、1054年の東西教会の分裂、1517年の宗教改革と続きます。宗教改革以後も、細かな分岐は続きますが、1831年12月31日、バートン・ストーンのクリスチャン・チャーチとキャンベル父子のディサイプルスが合同し、クリスチャン・チャーチ(ディサイプルス・オブ・クライスト)となりました。分裂を乗り越えて、キリスト者は聖書に帰って一つとなろうとしたのです。
この流れの中で、1883年にはディサイプルスによる日本伝道がなされますが、その一方で、組織の是非、奴隷問題、南北戦争、そしてオルガン使用の是非をめぐって対立が起こり、1889年にはチャーチ・オブ・クライスト(キリストの教会・無楽器派)が分離、またその後、中央集権化の是非、自由主義神学やエキュメニカル運動への賛否が生じ、1920年にはクリスチャン・チャーチ(キリストの教会・有楽器派)が分離することになります。そして、戦後の日本では、日本基督教団に残ったディサイプルスと、教団から離脱したキリストの教会(有楽器派)と、戦時中に閉鎖し、戦後に再開したキリストの教会(無楽器派)がそれぞれ活動しています。
こうして見ると、旧約の家族も、教会の歴史も、「共にいる」ことは人間の力だけでは難しい現実に直面してきました。けれども、詩編133編はなお歌います。「兄弟が共に住むことは 何という幸せ、何という麗しさ」。なぜなら、「主はそこで祝福と とこしえに及ぶ命を定められた」からです。鍵は、「主が定められた」という一点にあります。私たちが完全になったからではなく、主が祝福と命をもって臨在される「そこで」、交わりが立ち上がるのです。
使徒言行録2章の群れは、まさにその「そこで」を生きました。使徒の教え、交わり、パン裂き、祈り、分かち合い、喜びと真心の食事──すると「主は救われる人々を日々仲間に加えてくださった」。これは、特別な手法の結果ではなく、主がご自身の民のただ中にいてくださる結果でした。私たちの教会の歩みも、その同じ恵みの延長線上にあります。歴史の途中にある痛みや相違を否定するのではなく、正直に覚えつつ、それでもなお「主が加えてくださる」現実を受け取りたいのです。
「兄弟が共に住む」ことを最後に引き裂く現実は「死」です。しかし、エルサレムの一つの山で主イエス・キリストが十字架にかかってくださったことにより、私たちは罪赦され、神の子としての祝福に与りました。キリストの復活によって、「死」を打ち破る「とこしえに及ぶ命」の希望が与えられました。私たちは教会において「共に」交わり、「とこしえ」に続く天の大祝宴の前味を「何という幸せ、何という麗しさ」と喜ぶのです。
私たちが、礼拝に集っていること、それ自体が奇跡です。共に座り、共に祈り、共に賛美できることが、すでに神の祝福です。どうか一週間の歩みの中で、この言葉を思い出してください。「兄弟が共に住むことは 何という幸せ、何という麗しさ」。その祝福を職場で、家庭で、地域で、隣の人に広げてみてください。そして「主は救われる人々を日々仲間に加えてくださる」ことを覚えましょう。今日から始まる新しい一週間、「とこしえの命の祝福」を喜んで過ごしましょう。


