2025年6月1日 主日礼拝説教「あなたは、私に従いなさい」 東野尚志牧師

申命記 第10章12~16節
ヨハネによる福音書 第21章20~25節

 主の日の礼拝において、ヨハネによる福音書の第1章、冒頭の賛歌を読んだのは、今から4年前、2021年9月5日、振起日の礼拝でした。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1章1~2節)。この印象深い賛歌から始まりました。「言」と訳されたのは「ロゴス」というギリシア語なので、「ロゴス賛歌」と呼ばれて来ました。「言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)と告げられました。天において、父なる神と共におられた独り子なる神が、肉体をとって私たちの間に宿られ、十字架と復活による救いの御業を通して、父なる神の独り子としての栄光を現わしてくださいました。私たちは、独り子イエス・キリストを通して現わされた、神の愛と真実の証しの物語を読み続けてきたのです。
 福音書冒頭の「ロゴス賛歌」を読んでから、3年9ヶ月を経て、福音書の結びの言葉を読むことになりました。今日、皆さんと一緒に、この福音書を読み終えることができるのを、神さまに感謝します。この福音書の御言葉を共に聞きながら、天に召されていった信仰の仲間たちがいます。この福音書の御言葉を共に聞きながら、新しく教会に加えられた仲間たちもいます。私たちの教会は、紛れもなく、ヨハネが告げる福音の言葉によって生かされてきたのです。ヨハネが証しする命の言葉を通して、神の言葉そのものである主イエス・キリストと出会って来ました。その恵みと真理によって導かれてきたのです。二千年前、主がその弟子たちに語られた言葉を通して、今も私たちに語りかけてくださる、生ける主の言葉を共に聞きたいと願います。

 福音書全体の締めくくり、そう呼んで良いところに、ヨハネは、主イエスとペトロの間で交わされた印象深い対話を記しました。主イエスは、ペトロに「あなたは私を愛しているか」と三度も問われました。「私があなたを愛していることはあなたがご存じです」というペトロの答えを三度引き出した上で、その都度、つまり三度「私の羊を飼いなさい」と言われました。それは、明らかに、主イエスが捕らえられた夜、大祭司の屋敷の中庭で、三度、主を知らないと言って、自ら主イエスとの関わりを否定してしまったペトロを、その裏切りと挫折の苦しみの中から救い出すためであったと思われます。主の弟子であることを三度も否定した言葉を、主への愛と信頼を告白する言葉でひとつずつ上書きすることで、主イエスはペトロを、再び主の弟子として立たせてくださいました。主ご自身がつけてくださったあだ名である「ペトロ」、すなわち「岩」としての務めへと回復してくださったのです。
 「私の羊を飼いなさい」と言って、主イエスは、ご自分の羊たちを導く羊飼いの務めをペトロに託されました。それは、かつて主イエスがご自身について語られた言葉を思い起こさせます。「私は良い羊飼いである」、そのように語られた主イエスは、続けて言われました。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10章11節)。そして、その言葉どおり、主は良い羊飼いとして、主の羊である私たちすべてのために、十字架にかかって、その命を捨ててくださいました。私たちを救うために、ご自分の命を犠牲にされたのです。良い羊飼いとして主イエスの羊の世話を託されたペトロもまた、主イエスの歩みをなぞることになります。

 三度目に「私の羊を飼いなさい」と語られた後、主イエスは、続けてペトロに言われました。「よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる」(21章18節)。ペトロは若い頃、自分の信念や熱心さによって、また自分の正しさを信じて、自分の思うように生きてきたのでしょう。最後の晩餐の後、「あなたのためなら命を捨てます」と言ったのは、そういう熱血漢のペトロの生き方をよく現わしています。しかし、その自信はもろくも崩れ去りました。主の赦しの愛の中で、再び、主の羊を飼う者として立てられたペトロは、やがて年を取ると「両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる」というのです。主イエスがこう言われたことについて、福音書記者はその意図を説明します。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(19節)。
 「両手を広げ」というのは、主イエスと同じように、十字架につけられる姿を指すと考えられます。ペトロもまた、主と同じように捕らえられて、他の人に帯を締められ、十字架につけられて死ぬ。そのようにして、神の栄光を現すことになると言われるのです。実際、ペトロは、紀元60年過ぎ、ネロ皇帝による大迫害のときに、ローマで捕らえられ、十字架につけられて殉教の死を遂げたと伝えられています。しかも、新約聖書の外伝のひとつである『ペトロ行伝』によれば、ペトロ自身が、主イエスと同じ姿では申し訳ないと願い出て、頭を下にして足で天を指すように、逆さのはりつけになったと伝えられるのです。恐らく、この福音書を書いた人物は、そのペトロの死について、その死に方についてもよく知っていたはずです。そのことを踏まえながら、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示そうとして、イエスはこう言われた」と記したのです。主イエスは、ペトロに対して、その殉教の死について予告された後、改めて、ペトロに言われました。「私に従いなさい」。

 ペトロは、再び、主の召しを受けて、主のみ足の跡に従って行こうとしました。ところが、ふと、後ろを振り返ると、主イエスの愛しておられた弟子の姿が目に留まりました。ヨハネの福音書の中で、その名前は記されないままで、「イエスの愛しておられた者」と呼ばれて、重要な場面で登場して来た人です。ここにも記されているように、この弟子は、「あの夕食のとき」、つまり、最後の晩餐の席上で、「イエスの胸元に寄りかかったまま、『主よ、あなたを裏切るのは誰ですか』と言った人」です。この人は主イエスのすぐ隣にいたので、ペトロがこの弟子に合図して尋ねさせた、とありました。主イエスが園で捕らえられ、大祭司の屋敷に連行されて行く中、隠れて後について行ったペトロと一緒にいたもう一人の弟子、というのも、この人のことと考えられます。この弟子が大祭司の知り合いだったので、ペトロも中庭に入れてもらうことができたのです。さらに、ペトロが三度、主の弟子であることを否定して逃げ出した後も、十字架につけられた主の足もとに留まっていた人です。主の十字架のそばにいた女たちの中にただ一人、まだ少年であったからでしょうか、咎められることなくその場にいて、主イエスから母マリアを託されたのでした。主イエスが復活されたとき、マグダラのマリアの報告を受けて、ペトロが空になった墓に急いだとき、ペトロを追い抜いて、先に墓に着いたにもかかわらず、最初に墓の中に入るのをペトロに譲ったのもこの弟子です。しかも、21章の初めに記された物語では、ガリラヤ湖で漁をするペトロたちに声をかけたのが、復活された主イエスであるということに、ペトロよりも誰よりも先に気づいたのはこの弟子でした。
 ペトロにとっては、自分よりもかなり年若い弟子でありながら、気がつけばいつも側にいる、気になる存在であったのかも知れません。ペトロは後から付いて来るこの弟子に気づいて、主イエスにお尋ねしたのです。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」。自分は殉教の死によって神の栄光を現すことになると告げられました。主がそのように私の道を備えてくださり、私を用いてくださるならば、どこまでも従って行こうと思いました。ところが、ふと、主の愛しておられた弟子の姿が目に入ったのです。では、この人はどうなるのでしょうか。つい聞いてみたくなりました。こういうところも、私たちはペトロという人に対して、親近感を持つかもしれません。私たちは、それぞれに、主イエスの招きを受けて、それに従って行けば良いのですけれど、やはり他の人のことも気になるのです。私たちに染みついた性なのかもしれません。自分が何か特別な役目を負うことになったとき、しかもそれが自分にとって負担であるとき、私たちはしばしば「どうして私なのですか」と問うてしまいまいます。あの人でもこの人でもなく、どうして選りに選って、自分が選ばれたのか、恨み言のひとつも言いたくなってしまう。しかし、そうかと思えば、自分が選ばれたいと思いながら選ばれなかったときには、「神さま、どうして私ではないのですか」と言って、選ばれた人のことを妬ましく思ったりするのです。

 主イエスは、ペトロも、そして私たちも、そんなふうに考えてしまう人間の一人であることをよくご存じなのだと思います。少々、厳しい口調でお答えになりました。「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい」(21章22節)。ペトロにはペトロの道が備えられています。主イエスの羊の世話をするという、大切な牧者としての務めが与えられ、最後には、まさに良い羊飼いとして、羊のために命を捨てて、神の栄光を現す道が備えられているのです。ペトロが主イエスの召しを受けたとき、主イエスと同世代の30代であったとすれば、ネロ皇帝の迫害で殉教したときは60代になっていたと考えられます。一方、主が愛された弟子は、主の十字架刑に立ち会ったときはまだ少年であり、10代半ばくらいであったとすれば、ペトロが殉教の死を遂げたときも、まだ40代です。ペトロの殉教も見届けた上で、さらに20年以上を経て、このヨハネによる福音書を書いたと思われるのです。この弟子に対しては、迫害の間も長く生き抜いて、主イエスの言葉と業についての証しを福音書にまとめ、その福音によって教会を形成するという務めが与えられました。弟子たちの中では、比較的長生きをすることになりました。それは、ペトロの務めと比べて、どちらが上か下かというようなことではなくて、主は、それぞれに道を備えておられるのです。それぞれの道をお決めになるのは主イエスであって、ペトロが考えることではありません。「あなたに何の関係があるか」というのは、ペトロを突き放すような、厳しい言葉にも聞こえますけれど、ペトロは自分に与えられた使命を果たせば良いのです。だからこそ、主イエスは、改めて、ペトロにお命じになります。「あなたは、私に従いなさい」。
 「あなたは、私に従いなさい」。主語の「あなた」が、強調されています。ほかの人のことはどうでも良い、ということではありません。私たちはもちろん、互いのことを覚え合い、祈り合い、支え合って、また助け合いながら生きていくのです。自分さえ良ければ良いというのではなくて、教会の交わりの中で生きていくのです。けれども、主の召しについては、それぞれです。イエス・キリストへの従い方は、それぞれです。都会の教会において、何百人もの人に洗礼を授けて、大きな群れを導いて行く牧者もいれば、地方の教会で主の日毎にわずか数名の信徒と共に礼拝をささげながら、10年振りに受洗者が与えられたことを、小さな群れと共に喜び感謝する牧者もいるでしょう。たくさんの書物を書いて、キリストの教えを広める牧者もいれば、伝道者としての自らの生涯を一冊の証しの書として主に献げる牧者もいるでしょう。信徒の生き方もそれぞれです。この世的にも地位と名誉を得て、たくさんの献金を献げて教会を支える人もいれば、貧しくひっそりと主の証しと祈りに生きる人もいるでしょう。健康で長く生きて多くの働きを担う人もいれば、病や災害のために短く命を終える人もいます。それぞれに主から与えられた献身の道があって、他の人の人生と比べて、思い上がったり落ち込んだりする必要はありません。主は私たち一人ひとりに呼びかけておられるのです。「あなたは、私に従いなさい」。

 しかしどうやら、主イエスの言葉を誤解した人たちがいて、最初の教会に多少の混乱が起こったようです。主は言われました。「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい」。福音書記者は、そこに注を付けるようにして述べています。「それで、この弟子は死なないという噂がきょうだいたちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『私の来るときまで、彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである」(21章23節)。恐らく、最後にこの第21章を記した人は、すでにペトロの殉教の死を知っています。もう一人の主が愛された弟子も、確かに長生きはしたけれども、福音書をまとめて、やがては死んだのでしょう。不安を覚えた信徒たちがいたのかもしれません。けれども、主イエスは、決して、主の再臨のときまで、その弟子は死なないと言われたのではない、と言って、広まっていた噂に訂正を加えて動揺を静めようとしたのです。

 そして、いよいよ、すでに書かれていたヨハネの福音書に、第21章を書き加えた人が、結びの言葉を記します。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」(21章24節)。最後まで、名前は記されませんでしたけれども、この福音書を記したのは、主が愛されたこの弟子であった、と証しするのです。後の教会が、主の愛された弟子をヨハネに重ね合わせたために、この福音書は、ヨハネによる福音書と呼ばれることになりました。そして、「この福音書を書いたのは、この弟子である」と書いた人が、最後の最後の結びを記します。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。私は思う。もしそれらを一つ一つ書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(21章25節)。福音書の編集者は、この福音書に書き留められている主イエスの働きや教えの言葉は、主イエスがなさったことのごく一部に過ぎないということを強調するのです。「もしそれらを一つ一つ書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」というのは、古代の著作によく見られる誇張した表現として受けとめられてきました。けれども、証しの真実にこだわってきた編集者が、最後の最後に、根拠のない誇張表現を用いたとは考えられません。むしろ、ここにも証しの真実があると言ってよいのではないでしょうか。
 なぜなら、主イエスの御業は、主イエスの33年あまりの地上の生涯で終わってしまったわけではないからです。死の力を打ち破ってよみがえられた主イエスは、今も、ご自身の復活の体である教会を通して、その御業を続けておられるのです。復活された主は、ご自分の霊である聖霊を教会に与えてくださいました。主イエスは、今も、霊において、私たちの間に力強く働いてくださり、私たち一人ひとりを召し出し、一人ひとりに、それぞれが主イエスに従って生きる人生を与えてくださいます。大牧者である主が、主の羊である私たちを命の水へと導いてくださり、私たちを御言葉によって養い、この世へと遣わしておられます。主は今も、遣わされた私たちを通して、御業を行っておられるのです。

 主イエスは、救いへと招いてくださった私たち一人ひとりの人生を通して、新たな救いの書物を書き続けておられます。この世界には、主イエスを信じている者たちの数だけ、主イエスがなさったことの証しが満ちているのです。それは、これからも増え続けていきます。世界もそれを収めきることができないほどの豊かな信仰の証しが、また愛の証しが綴られているのです。私たち一人ひとりの人生を、主の御業が現された証しの書として、主にお献げしたいと願います。短くても、長くても、華々しい出来事に彩られていても、そうでなくても、主イエスご自身が、私たちの人生の歩みを用いて、救いの証しを描き続けていてくださるのです。
 私たちが礼拝を終えて、この世へと遣わされていく中で、さらに主の証しの書の続きが記されていきます。病との戦いの中で、苦難の中で、試練を通して、私たちがそこで、挫折や迷いを繰り返しながらも、なお主に立ち帰り、主に従い行く、その歩みを通して、主の御業が行われ、主の栄光が現されるのです。「あなたは、私に従いなさい」。主イエスの御声に聞き従い、主の御言葉と聖餐に養われ、主の証し人として、遣わされて行きたいと思います。