2025年5月25日 主日礼拝説教「あなたは私を愛しているか」 東野尚志牧師

詩編 第23編1~6節
ヨハネによる福音書 第21章15~19節

 5月の最後の日曜日を迎えました。今日は、礼拝に引き続いて、2025年度第1回の定期教会総会が開催されます。いわゆる決算総会となります。2024年度の会計報告をはじめとして、昨年度の活動についての諸報告を聞きます。昨年度は、滝野川教会の創立120周年をお祝いする特別な一年でした。特別伝道礼拝やコンサートも120周年を記念するために計画されました。コロナ禍の自粛ムードからも完全に解放されて、少々張り切って愛餐会が多くなって、お疲れになった方もあったと思います。申し訳ないことでした。教会員の記念の証し集も、担当委員会のご努力で立派なものができ上がりました。将来に備えて、教会墓地の墓誌を増設するという整備も行われました。振り返ることも盛りだくさんです。
 一年の歩みの締めくくりとなる報告総会です。神さまから与えられた恵みを数えて、感謝を新たにすると共に、気を引き締めて、教会の新しい時代を拓いて行きたいと願います。総会議員である現住陪餐会員の方たちはもちろんのこと、他教会の方や求道中の方たちにも、参加していただければ幸いです。滝野川教会の今を、ご一緒に受けとめながら、将来への望みと祈りを共にしたいと思います。

 教会総会に先立つ、主の日の礼拝において、ヨハネによる福音書の物語をご一緒に味わいます。第21章の15節から19節まで。ヨハネの福音書も残りわずかとなりました。来週の礼拝をもって、21章全体を読み終えることになります。皆さんそれぞれに、この福音書を通して受け取られた恵みを分かち合うことができれば、これもまた幸いなことだと思います。心に残った箇所や、忘れがたい御言葉など、それぞれに振り返ってみていただければと願っています。その意味では、今日、私たちに与えられたところも、忘れがたい御言葉の一つになるのではないかと思います。復活された主イエスと、弟子たちを代表するペトロとのやり取りが記されているのです。
 ヨハネによる福音書は、最初は、第20章までで終わっていたのではないか、そんなふうに考えられているということを、前回、お話ししました。第20章の終わりには、復活された主イエスとトマスの再会の物語が記されていました。主イエスの復活を信じなかったトマスに対して、主はまっすぐ歩み寄って、十字架の傷跡を示しながら、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。疑い深いトマスを、信じることへと招かれたのです。トマスはすぐ、主に答えて言いました。「私の主、私の神よ」。このトマスの信仰告白が、ヨハネによる福音書全体のクライマックスでした。最後に短くあとがきのような言葉が記されて、第20章は結ばれたのです。そこで終わっても良かった。いやそこでいったんは、閉じられたのです。

 ところが、それほど時をおかずに、第21章が記されたのだと思われます。20章までは、主イエスの十字架と復活を頂点とする救いの出来事が描かれてきました。第21章は、今日まで続く教会の物語が記されています。この21章がなければ、ヨハネによる福音書が投げかけた問いは、宙に浮いたままになってしまったと言ってよいかもしれません。主イエスは、20章の終わりで、トマスに対して、信じることをお求めになりました。後に続く教会のために、「見ないで信じる人は、幸いである」という言葉まで、残してくださいました。けれども、まだ開いたままの傷口を抱えている弟子がいたのです。よりによって、主イエスが捕らえられ、裁かれているそのときに、主イエスのことを知らない、と言ってしまったペトロ。しかも、一回、二回ではありません。三回も主イエスとの関わりを否定してしまったのです。
 話は、最後の晩餐が行われた夜に遡ります。ヨハネによる福音書の第13章です。第13章の初めには、これもまた忘れがたい言葉が記されていました。「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」。「最後まで愛し抜かれた」。新共同訳聖書は「この上なく愛し抜かれた」と訳しました。かつての文語訳聖書では「極みまで」と訳しました。主イエスは、弟子たちを愛し抜かれたのです。この福音書を読みながら、何度も思い起こした言葉があります。第3章16節。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。御子イエス・キリストは、まさに、この神の愛を担って、神の愛そのものとして、地上に来られました。そして、ご自身に託された神の愛を貫いて、弟子たちを愛し抜かれた。その愛を、身をもって伝えるために、弟子たちの足を洗って行かれました。その上で、主は弟子たちに言われたのです。「私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そう言うのは正しい。私はそうである。それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ」(13章12~15節)。

 その後、主イエスは、ご自分が去って行かれることを予告した上で、改めて、弟子たちに新しい戒めをお与えになりました。「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう」(13章34~35節)。主イエスの言葉を聞いて、ペトロは胸騒ぎがしたのかもしれません。すぐ主に尋ねました、「主よ、どこへ行かれるのですか」。主イエスがどこかへ行ってしまいそうだ、それは死を意味するのではないかと感じたペトロは、自分も命を捨てる覚悟で、どこまでも主イエスについて行くと言いました。「あなたのためなら命を捨てます」。これも、明らかに、愛の告白です。確かに、ヨハネの福音書は、私たちが主イエスを信じることを求めています。主を信じて救われるようにと招いています。信じることが大事です。しかしまた、ヨハネによる福音書は、愛の福音書とも呼ばれます。愛を告げると共に、愛を求めているのです。
 「あなたのためなら命を捨てます」。決死の覚悟の愛の告白を受けて、主は言われました。「私のために命を捨てると言うのか。よくよく言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」(13章38節)。この主イエスの言葉で13章は結ばれます。そして、14章から16章まで、主イエスの最後の説教が遺言のように語られ、17章には弟子たちのための執り成しの祈りが記された後、18章に入ると、主イエスは園で捕らえられるのです。裏切りの予告からほんの数時間後のことです。ペトロは、もう一人の弟子の手引きで大祭司の屋敷の中庭に入ると、門番の女に見とがめられました。「あなたも、あの人の弟子の一人ではないでしょうね」と言われて、とっさに「違う」と否定してしまいます。何食わぬ顔で火にあたっていると、周りの人たちから「お前もあの男の弟子の一人ではないだろうな」と言われました。ペトロは必死に打ち消して、また「違う」と言ってしまいます。そして、主イエスが園で捕らえられたとき、一緒にいた人から、あそこでお前を見たぞ、と言われると、ペトロはまた打ち消した。これで三度目です。「するとすぐ、鶏が鳴いた」というのです。
 ヨハネの福音書では、その後のペトロの思いには一切触れていません。けれども、ペトロが、自ら主イエスへの愛を裏切ってしまったことは、後悔の思いと共に、深い傷となって残っていたはずです。あまりにも堂々と、また勇ましく「あなたのためなら命を捨てます」と死をも恐れない愛を告白していただけに、実際には、死の恐れに打ちひしがれた惨めさを味わっていたに違いないのです。

 故郷ガリラヤの湖の畔で、復活された主イエスが朝の食事を用意して、弟子たちを招いてくださったとき、ペトロは、他の6人の弟子たちと一緒に、主のもてなしにあずかりました。食事が終わると、主イエスは、あのとき、トマスに歩み寄られたのと同じように、ペトロに向き直るようにしてお尋ねになりました。「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」(21章15節)。主イエスは、ほぼこれと同じ言葉で、三回繰り返して、「私を愛しているか」と問われました。主イエスは、ペトロに向かって、三回「ヨハネの子シモン」と呼びかけておられます。ペトロというのは、主イエスがつけてくださったあだ名のようなもので、ユダヤ人の社会でのペトロの正式の呼び名が、「ヨハネの子シモン」であったと思われます。当時の人たちに苗字はありませんから、父親の名前と自分の名前を合わせて言うことで、苗字と名前の意味になりました。
 同じ福音書の1章42節に、主イエスによる名付けの場面が記されています。シモンの兄弟のアンデレが、シモンを主イエスのもとに連れて行ったときのことです。主イエスはシモンに目を留めて言われました。「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ―『岩』という意味―と呼ぶことにする」。岩という意味の「ケファ」をギリシア語に訳したのが「ペトロ」です。マタイの福音書では、主イエスがシモン・ペトロに向かって、「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう」と言われたことが記されています(マタイ16章18節)。主イエスは、あだ名のペトロではなく、ヘブライ語のフルネームで「ヨハネの子シモン」と呼びかけられたのです。

 「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」。「この人たち以上に」というのは、その場に居合わせた他の6人以上に、ということでしょう。けれども、他の弟子たちと愛の度合いを比べて優劣を問うということではないと思います。ここにも、あの「最後まで」「極みまで」「この上なく」言われた愛が求められているのだと思います。主イエスはペトロの覚悟を問うておられると言ってよいかも知れません。そしてそれは言うまでもなく、主イエスの弟子ではない、そんな人は知らない、と言って、自分で主への愛を否定してしまったペトロに、その愛の否定をひとつずつ踏み直すように、愛の告白を求められたのです。ペトロは三度、主イエスを知らないと言ってしまいました。そのペトロが、今、主イエスから三度愛を問われ、「愛しています」と告白することで、主の愛を拒んだ罪が赦されていることを確認して、新たに歩み始めることができるのです。主イエスは、ペトロの中にわだかまっていた裏切りへの後悔を、ペトロ自身の愛の告白の言葉で塗り直し、上書きさせようとしておられるのです。
 けれども、ペトロの答えは実に正直です。あの夜ならば、自分の勇気と決意によって、自信をもって「愛しています」と答えられたかも知れません。けれども、今、ペトロは、自分の思いを言い立てることはできません。主イエスとの関わりの根拠を自分の側に求めるのではなくて、主イエスの側に委ねるようにして答えます。「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」。主イエスは、私たちのことを私たち自身よりも良く知っておられます。主が知っていてくださるという恵みの中で、私たちの主イエスに対する愛は支えられているのです。ペトロの告白に答えて、主は言われました。「私の小羊を飼いなさい」。主イエスはペトロに、ご自分を信じる者たちを導く牧者の務めを委ねられます。主ご自身が「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われた言葉を思い起こします(10章11節)。さらには、主イエスが、そのお言葉通り、良い羊飼いとして、私たちすべての羊を救うために、ご自分の命を捨ててくださった方であることを思い起こさせられるのです。

 ところで、ここでの、主イエスとペトロのやり取りは、日本語で読んでいる限りは、ほぼ同じやり取りが三回繰り返されているということになります。主イエスが、「あなたは私を愛しているか」と問われ、その都度、ペトロは「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えています。三度の愛の否定に対する、三度の愛の告白が大事な意味をもっているわけです。けれども、この同じ箇所を、聖書の原文で読むと、興味深いことに気づかせられます。「私を愛しているか」。主がペトロに三度問われた内の最初の二回は、「愛する」という意味の言葉として「アガパオー」という動詞が用いられています。これは、神の愛を現わすと説明される「アガペー」というギリシア語の動詞形なのです。それに対して、ペトロの側で「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えるとき、用いられているのは「アガパオー」ではなくて三回ともすべて「フィレオー」という言葉です。名詞形の「フィリア」は、友としての愛を現わす言葉だと言われます。そして、主イエスの問いは、最初の二回は「アガパオー」を用いておられるのに、最後の三回目は「フィレオー」が用いられているのです。その使い分けを読み込むならば、主イエスは最初、ペトロに対して「あなたは私をアガペーの愛で愛するか」と問われたのに対して、ペトロの側では「あなたをフィリアの愛で愛しています」と答えた。そういうやり取りが二回繰り返されて、三度目には、主イエスの方で問いの言葉を変えて、「私をフィリアの愛で愛するか」と問われたということになるわけです。
 つまり、最初、主イエスは、神の愛に応える完全な愛で主イエスを愛することをペトロに求められたのに対して、ペトロの側では、自分が主イエスを愛するのに、完全な神の愛で愛しているなどとはとても言えない。自分の弱さと罪を突きつけられるようにして、人間同士の友としての愛で愛していると答えるほかはなかった。同じやり取りを二回繰り返して、三度目には、主イエスの方から、ペトロのところに歩み寄るようにして、アガペーの愛ではなくフィリアの愛で、人間的な友としての愛で愛することをお求めになった、そういう解釈が成り立つのです。しかしまた、同じことを別の言葉を用いて言い換えるのはよくあることであり、アガパオーとフィレオーの使い分けに深い意味はない、と説明する人もいます。皆さんは、どんなふうに感じられるでしょうか。

 私としては、確かに、ヨハネはしばしば、同じ意味のことを別の二つの言葉で表現することがあるとしても、やはりペトロの思いとして、アガペーの愛を現わす言葉を用いることははばかられたのではないかと思います。自分自身の罪の惨めさをいやというほど味わった身で、アガペーの愛で愛する、とはやはり言えなかったのではないでしょうか。そういう中で、ペトロは、主イエスご自身が語られた言葉を思い起こしたのではないかと想像します。主が弟子たちの足を洗われた後、改めて、食事の席に戻って言われました。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15章12~15節)。
 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われた主イエスが、まさにそのフィリアの愛で弟子たちを愛し、友と呼んでくださった。ペトロは、その愛を告白し、主もまたその愛を受け入れてくださったのではないでしょうか。主イエスは、そのとき、続けて言われました。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」。ペトロは、この主イエスによる選びによって、主の愛の中で立ち直ることができたのです。主イエスが選んでくださり、主イエスが愛してくださり、主イエスが召し出してくださり、主イエスが、新たな使命を与えてくださる。復活の主の呼びかけの中で、ペトロは立ち上がるのです。

 主イエスは、私たち一人ひとりに対しても、愛を問うておられるのだと思います。私たちの名を呼んで、主は言われます。「あなたは私を愛しているか」。愛を問われるというのは、厳しいことです。けれども、すべてを知っておられる主の前に立って、私たちのあるがまま、真実をお献げしたいと思います。私たちもまたペトロのように、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えることができるのです。自分の愛に自信があるからではありません。主が私たちのことを、私たち以上に良く知っておられることを信頼して、私たち自身を、あるがままの真実を、主の御手にお献げするのです。
 この礼拝から始まる新しい一週の歩みが、主が私たちに求めておられる愛に生きる歩みとなりますように。御言葉をただ聞くだけでなく、御言葉を生きる者として、主を愛し、隣人に仕える歩みをしっかり刻んでいきたいと思います。私たちが主を愛する前に、主がどれほどに深く私たちを愛してくださっていることでしょうか。独り子を遣わすほどに世を愛してくださる神さまと、私たちを友と呼び、私たちのためにご自身の命を捨ててくださった主イエス・キリストの愛が、溢れるほどに豊かに注ぎ込まれています。主の愛に満たされて、私たちも主を愛し、主に愛されている自分自身を受け入れながら、隣人を愛する者として生きることができるのです。