2025年5月11日 主日礼拝説教「さあ、来て、朝の食事をしなさい」 東野尚志牧師

詩編 第34編6~11節
ヨハネによる福音書 第21章1~14節

 「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。本日の説教題です。いつも月末には、翌月一か月分の教会の予定表を作成して配布します。先月、4月20日のイースターの週に、5月の予定表を作りました。予定表には、一か月分のすべての主日礼拝の聖書箇所、説教題、讃美歌を載せています。説教題というのは、ある意味、その日の説教の主題を提示するわけですから、まだ説教を一行も書いてもいない中で、説教題だけ決めるというのは、結構、頭を悩ませるのです。今日の箇所は、復活の主が弟子たちを食事に招いていくださる場面が描かれます。弟子たちが舟で漁に出ている間に、イエスさまは、ご自分で炭火をおこして魚を焼いて、パンも用意して、岸辺で待っておられました。そして、一晩中漁をして、疲れ切っていた弟子たちを招いて言われるのです。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。この言葉が、実に思いやりに満ちた、優しい響きをもって聞こえてきました。それで、今日の説教題は、このイエスさまの招きの言葉をそのまま掲げさせていただきました。あまり、私がつけそうにない説教題であったかもしれません。
 教会の前の2つの掲示板に、また女子聖学院と聖学院小学校の角にある掲示板に、先週一週間、この説教題が掲げられました。道行く人たちがこの題を見て、どんなふうに感じられたか、感想を聞いてみたい気がします。もう今から3年以上前のことになります。ヨハネによる福音書の第1章を読んでいた頃、主イエスが新しく弟子たちを招いて言われた言葉を、説教題に掲げたことがありました。「来なさい、そうすれば分かる」。教会の前を歩いていた聖学院の生徒と思われる男の子たちが、それを見て「来れば分かるってさ-」と言っていたと聞きました。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。この説教題を見て、教会で、無料の朝食会でもあるのかと、楽しみにして来られた方があったら申し訳ありません。朝食の用意はないのですけれども、ぜひ、命の言葉を召し上がっていただきたいと願っています。主イエスは、疲れ切った弟子たちに食事のもてなしをされたように、この世の生活で疲れ切っている私たちに、御言葉によるもてなしを用意してくださいます。そして、私たちを、天の宴の交わりに招いていてくださるのです。

 今日の聖書の物語の舞台は、パレスティナ地方の北にある、ガリラヤの湖のほとりです。聖書には「ティベリアス湖畔」とあります。これは、ローマ式の呼び方です。当時のローマ皇帝ティベリウスにちなんで、「ティベリアス湖」と呼ばれました。皇帝ティベリウスの名前は、ルカによる福音書の3章1節に出て来ます。「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主」うんぬんと言うのです。ルカによる福音書では「ゲネサレト湖」という呼び名も用いられています。ユダヤ人には「ガリラヤ湖」として親しまれていました。福音書記者ヨハネは、異邦人の信徒たちを意識したのでしょうか。ローマ人に通じる呼び名、「ティベリアス湖」という名前を用いました。ヨハネによる福音書の第21章は、このティベリアス湖のほとりで、復活された主イエスが、七人の弟子たちにご自身を現わされた出来事を描いているのです。
 このことからも、ヨハネによる福音書の20章までと最後の21章の間に、少し隔たりがあることが分かります。第20章の終わりは、エルサレムが舞台でした。十字架にかけられ、死んで墓に葬られた主イエスは、三日目の朝、墓の中からよみがえられました。主イエスが葬られたお墓は、エルサレム近郊にあり、復活された主イエスは、エルサレムの都で、弟子たちに現れてくださったのです。復活されたその日の夕方には、弟子たちが集まっていた家を訪ねられました。弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけて潜んでいたにもかかわらず、主は家の中に入って来られ、弟子たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言って、平和の挨拶をなさいました。主イエスはその時、合わせて弟子たちに告げられました。「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」。そう言って、弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われました。弟子たちに、ご自分の霊である聖霊を注いで、伝道へと遣わされたのです。
 主イエスが現れてくださったとき、たまたま一緒にいなかったのが十二人の一人のトマスでした。他の弟子たちが、復活された主イエスにお会いしたと言って興奮している中で、トマスだけは冷めており、まったく信じようとしませんでした。ところが、その一週間後の同じ日曜日、主イエスは再び弟子たちのところに現れてくださいました。一週間前と同じように、「あなたがたに平和があるように」、シャーローム、と告げてくださいました。そして、その時は弟子たちの中にいたトマスを目がけて歩み寄って、十字架の傷を刻んだ両の手と脇腹の傷を示しながら、言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスは弾かれたように答えました。「私の主、私の神よ」。それは、ヨハネ福音書全体のクライマックスとも言える信仰告白の言葉でした。主イエスは、このトマスの告白を受け入れてくださると同時に、後の時代の信仰者たち、つまり私たちのために、見ないで信じる者の幸いを告げてくださいました。ヨハネは、その後に続けて、この福音書が書かれた目的について短く記して、いったんそこで、福音書は閉じられたのです。

 その後に続く、第21章の始まりを見ると、物語の舞台は、エルサレムから120キロ以上も北に位置するガリラヤ湖、ティベリウス湖畔へと移動しています。いったい、なぜ、エルサレムで主の霊を受けて、主の復活の証人として遣わされた弟子たちが、自分たちの生まれ故郷であるガリラヤに戻っているのでしょうか。しかも、主イエスの召しを受けたとき、それまでの漁師の仕事を捨てて、主に従っていたペトロが、なぜ、故郷に戻ってまた漁をしているのでしょうか。なんともちぐはぐな印象を受けてしまいます。ルカによる福音書の第5章には、ガリラヤの漁師であったペトロたちが、主イエスの召しを受けて、主の弟子となった出来事が、印象深く記されています。今日、私たちが読んでいる物語と良く似た場面でもあります。もしかすると、元になっているのは、同じ出来事であったのかもしれません。それが、別々に伝えられて、ルカの福音書とヨハネの福音書に、異なる状況設定の中で描かれているのかもしれません。
 ルカの福音書によれば、漁師のシモンと仲間たちが、ガリラヤの湖で、一晩中漁をしたけれども、何も捕れなかったというのです。すると、岸辺におられた主イエスが「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」と言われます。プロの漁師であるペトロたちが一晩中頑張ってもだめだったのに、素人が何を言うのか、反発してもおかしくない場面です。けれども、ペトロは、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えます。そして、主の言葉どおりにすると、おびただしい数の魚がかかって、網が破れそうになった、というのです。この驚くべき出来事を経て、主イエスは、シモン・ペトロに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。主の召しを受けて、ペトロと、また同じ漁師の仲間であったゼベダイの子、ヤコブとヨハネは、舟を陸に引き上げて、すべてを捨てて主イエスに従った、というのです。それなのに、ヨハネの福音書の第21章においては、生まれ故郷であるガリラヤに舞い戻って、漁をしているペトロの姿が描かれています。「人間をとる漁師」とされたはずのペトロが、再び、故郷で、人間ではなく魚を捕っている。そこには、厳しい挫折を味わった者たちの姿が見えるのです。

 恐らく、エルサレムで始めた新たな伝道の生活は、一時期のブームが過ぎると、あまり順調に進まなくなっていたのかもしれません。主イエス・キリストから直接、息を吹き入れられ、聖霊を受けて伝道へと押し出されたとはいっても、弟子たちを取り巻いている環境は、生やさしいものではなかったはずです。ローマ帝国に逆らう犯罪人として処刑されたナザレのイエスの仲間として、お尋ね者のリストにあがっていたかもしれません。エルサレムのような都会では、人目にもつきます。生活にお金もかかります。生まれながらの漁師ですから、漁以外の仕事ができるわけでもありません。都会での毎日の生活の大変さに疲れて、大きな挫折を味わいながら田舎に帰る。そこには、都会へ働きに出た若者たちの姿が重なり合います。挫折を抱えて故郷に帰る。それは故郷に錦を飾るというような華々しいことではありません。隠れるように、逃げるように、故郷に帰ってきた。主イエスに従う決断をして、いったんは捨てたはずの網をもう一度手にして、漁をするしかない空しい日々を送っていたのではないでしょうか。主イエスの復活の証人として、何とか復活の主と出会った感動と喜びを伝えようとしても、上手くいかない。話もまともに聞いてもらえない。そんな経験を重ねたのかもしれません。ペトロは仲間を誘うでもなく、「私は漁に出る」と言います。すると、同じように挫折を抱えた仲間たちが「私たちも一緒に行こう」と言って後に続いたのです。
 ペトロの周りには、ペトロを入れて七人の仲間がいました。21章の2節で、最初に名前が挙がるのは、「シモン・ペトロ」です。もともとの名前は「シモン」でした。主イエスが、シモンに「ペトロ」、「岩」という新しい名前を付けてくださったのです。二人目は「ディディモと呼ばれるトマス」。20章の終わりに登場した、あのトマスです。復活された主イエスと再会して「私の主、私の神よ」と告白した人です。三人目は「ガリラヤのカナ出身のナタナエル」。ずいぶん懐かしい思いがします。ヨハネの福音書の1章に登場した人です。先に主の弟子になったフィリポから、主イエスのことを聞かされても、「ナザレから何の良いものが出ようか」と言って取り合いませんでした。けれども、主イエスに出会い、主イエスに知られていることを知って、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と告白しました。ナタナエルがガリラヤ出身だということは分かっていましたが、ガリラヤの町カナの出身だということはここで初めて知らされます。「カナ」と言えば、主イエスが水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡、最初のしるしを行われたところです。ナタナエルは、第1章で名前が挙がって以来の久々の登場となります。何となく、これまでに読んできたヨハネの福音書の物語が懐かしく思い起こされていくような描き方です。そして、次に登場するのは「ゼベダイの子たち」、他の福音書で、ヨハネとヤコブの兄弟のことだと分かりますけれど、この福音書の中では一度もその名前が記されていません。この福音書の中で言及されるヤコブは、旧約聖書の族長ヤコブです。またこの福音書の中で名前が出るヨハネは、そのほとんどが洗礼者ヨハネであって、何度か、シモン・ペトロが「ヨハネの子シモン」と呼ばれている、そこに名前が出ているだけです。さあ、ここまでで五人、そして、あと二人「それにほかの二人の弟子が一緒にいた」と言われています。名前は記されていませんけれども、もしかしたらひとりは、ペトロの兄弟であったアンデレだろうか、またナタナエルを主イエスに紹介したフィリポだろうか、そんなふうに想像されます。ガリラヤで主イエスと出会った最初の弟子たちのリユニオン、そんな雰囲気も感じられるのです。

 「私は漁に出る」。ペトロがそう言うと、あとの六人も一緒に出て行って、舟に乗り込みました。ところが、その夜は一晩中漁をしても、何も捕れなかったというのです。夜が明けてきた頃、主イエスが岸に立っておられて、「何か捕れたか」と声をかけられました。ところが、弟子たちには、それが主イエスだと分からなかったといいます。これも、復活された主イエスがご自身を現わされたとき、しばしば起こったことでした。確かに、主イエスの手には十字架の傷跡が残されており、脇には槍で突かれた傷の跡がありました。けれども、死んで、墓に葬られた主イエスが蘇生した、生き返ったというのではありません。復活されたのです。その復活のお姿は、見てすぐに主イエスだとは分からなかった。主イエスから名を呼ばれたり、主イエスがパンを裂いてくださる様子を見て目が開かれた、福音書はそんな不思議な描き方をしています。主イエスの方から、ご自身を現わしてくださらなければ、私たちの側で主であることが分からないのです。
 「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」。魚は捕れたのか、と聞かれた弟子たちは、相手が主イエスだと分からないままに答えます。「捕れません」。すると主イエスは言われました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ」。半信半疑ながら、言われたとおり、舟の右側に網を打ってみると、おびただしい魚が網にかかって、網を舟の上に引き上げることができないほどになった、というのです。このあたりも、ルカの福音書5章の記事と似ています。弟子たちも心の中では、以前に経験したことを思い起こしていたかもしれません。前にも同じようなことがあった、というわけです。するとそのとき、この不思議な大漁を前にして、主イエスが愛しておられた弟子がペトロに言いました。「主だ」。ここでも、主イエスの愛された弟子の方が、ペトロよりも先に気づいて叫んだのです。「あれは主だ」。21章の後の方では、この弟子が福音書を書いたと説明されていますから、これまで名前が記されていない弟子のヨハネであったということかもしれません。「あれは主だ」、その叫びを聞くと、ペトロは慌てて、上着を身にまとって湖に飛び込みました。漁の作業をしながら上着を脱いでいたのです。普通、水の中に飛び込むときは、着ているものを脱ぐのですけども、わざわざ泳ぐのに邪魔になるであろう上着を着て、湖に飛び込んだのです。裸のままで主イエスの前に出るのは失礼だと思ったのでしょう。このあたりもペトロらしい、その人間性の表れた行動だと思います。考えてみるとちぐはぐなのですけれど、ペトロらしくて愛おしく感じます。
 ペトロは水の中を泳いで、主イエスのおられる岸を目指して急ぎました。他の弟子たちは、おびただしい数の魚がかかった網を、舟に引き上げることもできないので、そのまま引っ張りながら、岸を目指しました。「陸から二百ペキスばかりしか離れていなかった」とあります。聖書の巻末の換算表を見ると、1ペキスは約45㎝とあります。200ペキスだと約90メートルです。ペトロは元が漁師ですから、100メートルくらい泳ぐのは何でもなかったかもしれません。

 さて、岸に着いて陸に上がってみると、炭火がおこしてあり、その上に魚が載せてありました。パンも用意されていました。魚が焼ける良い香りが漂っています。いったい、だれがこれを用意されたのでしょうか。もちろん、主イエスのほかには、誰もいません。主イエスがご自分で、朝食のために、パンと魚を用意してくださったのです。それだけではありません。主は言われます。「今捕った魚を何匹か持って来なさい」。弟子たちが、今、捕ってきたばかりの魚を、主が用意してくださった食事に加えてくださるのです。これは、教会の姿だと言ってよいのだと思います。主イエスは、すべての準備を整えて、私たちを教会へと招いてくださいます。私たちを、教会へと迎え入れてくださるのです。それだけではありません。「今捕った魚を何匹か持って来なさい」、そう言って、私たちの小さな働きを祝福して、それをご自分の御業の中に加えてくださるのです。
 ヨハネによる福音書は、20章までに、主イエス・キリストの御業を描いてきました。十字架と復活のお姿を描いてきました。それを受けて、21章においては、主イエスご自身の御業の中に巻き込まれていく、主の弟子たちの姿、キリストの教会の姿を描いていると言ってよいのではないでしょうか。そこには、伝道の挫折があります。故郷に逃げ帰るようにして、惨めな思いややり切れない思い、無力感やもどかしさがあります。しかし、私たちが、遣わされたこの世から、主の教会へと逃げるように帰ってきたとしても、教会において、主が必要なすべてを準備して、私たちを迎え入れてくださいます。私たちの小さな働きをも喜んで祝福してくだいます。それを主ご自身の御業として用いてくださるのです。

 「今捕った魚を何匹か持って来なさい」。そう言われて、ペトロが岸に着けた舟に乗り込んで、網を陸に引き上げてみると、網は百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであったと言います。それほど多く捕れたにもかかわらず、網は破れていなかった、というのです。これもまた、教会の姿を象徴しているのではないでしょうか。古くから、153という数字に何か意味があるのではないかと考え抜かれてきました。早い時期から、これは地中海にいるとされる魚の種類の総数であり、この出来事は、世界の民族のすべてが救いの網の中に入れられていることを示しているという解釈がありました。世界のすべての民を救い上げても、教会の救いの網は破れない、というのです。もちろん、地中海の魚が153種類であったということを示す文献的な根拠はありません。あくまでも、象徴的な解釈です。
 インターネットの中には、153というのは、ナルシシスト数だという説明もありました。153という数には、とても不思議な性質があるというのです。これを説明し始めると数学的な話になります。アレルギーで体がかゆくなる人もいると思いますので、ここではやめておきます。しかし、象徴的な解釈ということで言えば、世界のすべての民族を示すという説明が良いのかもしれません。教会は、153という数字で象徴される世界のすべての民をその救いの網にすなどりながら、その網は決して破れることはない、ヨハネはそのように告げているのです。
 しかも、この網にすくい取られた魚を表わすのに、印象深い言葉を用いました。主イエスが用意して焼いておられた魚は、「オプサリオン」というおかずにする付け合わせの魚を意味する言葉が用いられています。けれども、153匹の魚については、「オプサリオン」ではなくて「イクトゥス」という言葉が用いられているのです。ヨハネの福音書においては、この21章でだけ用いられている言葉です。21章の6節と8節と11節。この言葉は、特に迫害の厳しかった時代、教会にとっては信仰者の暗号として用いられた言葉でした。「イエス・キリスト、神の子、救い主」それぞれの言葉の頭文字を集めると「イクトゥス」、つまり魚を意味する言葉になるのです。それで、秘密の礼拝場所や、特別な集まりを示すとき、魚のマークを書いて伝えました。今でも、魚のマークは、信仰者のしるしとして用いられることがあります。自動車の後ろに魚のマークのステッカーがついているのをご覧になった方もあるでしょう。恐らく、キリスト者の車です。

 主イエスは、傷つき、挫折した弟子たちに、驚くべき伝道の可能性を約束してくださいます。そして、弟子たちに言われます。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。弟子たちの中には、もう「あなたはどなたですか」と尋ねようとする者はいません。主イエスであると分かったからです。主イエスは、弟子たちを招き入れて、備えられたパンを取って、それを分け与えられます。魚も同じようにされます。主イエスの言葉、主イエスの仕草は弟子たちに思い起こさせたに違いありません。わずか五つのパンと二匹の魚で、五千人以上の大群衆が満腹した奇跡です。それもまた、しるしでした。教会の礼拝において行われる聖餐を指し示すしるしなのです。
 主イエスは、この朝、私たちにも告げてくださいます。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。「来たれ、すでに備わりたり」。そう言って、私たちを恵みの食卓、命の糧へと招いてくださるのです。「イエス・キリスト、神の子、救い主」。この信仰のもとに集められ、主のもてなしにあずかって、私たちも、大いなる慰めと励ましを得て、再び、主のもとから遣わされていくのです。この礼拝から始まる新たな一週の歩みに、主と共にある祝福と恵みが満たされるよう、お祈りします。