2025年4月13日 棕櫚の主日礼拝説教「主イエス、私たちの贖い」 東野ひかり牧師

ローマの信徒への手紙 第3章21~26節
出エジプト記 第25章17~22節

 本日は棕櫚の主日、今日から受難週に入ります。キリスト者にとりまして受難週は、主イエス・キリストが十字架の苦しみをお受けになり、死なれたことを覚えて過ごす大切な時です。皆さまもそれぞれの仕方で、祈りつつこの受難週を過ごされることと思います。私は今年の受難週にこの本を読みながら過ごそうと思い、書棚から懐かしい古い新書を引っ張り出して少し読み始めました。カール・バルトとエドゥアルド・トゥルナイゼンという、20世紀を代表する二人の神学者の共著で『われ山に向いて眼をあぐ』という本です(井上良雄訳,新教出版社,1955年)。副題に「待降節・降誕節・受難節・復活節のための小説教」とあります。とても久しぶりにこの古い本を手に取りまして、バルトが書いています受難節の小説教を読み始めました。
 今朝は、そのバルトの説教の最初のものの一部をご紹介することから始めたいと思います。出エジプト記の第29章46節を聖書テキストとする説教です。本日の旧約聖書のテキストとしました第25章の少し後のところのみ言葉、主なる神さまご自身の言葉です。「彼ら(イスラエルの民)は、私が主、彼らの神であり、彼らをエジプトの地から導き出し、彼らのうちに住まう者であることを知るようになる。私は主、彼らの神である。」この神の言葉に基づき、バルトは、棕櫚の主日の出来事にも触れながら書いています。

〈……ナザレのイエスがガリラヤから出て、かれの民のもとに来たり給うた時に、かれらが樹の枝を伐って、声を限りに「ホサナ」と叫んだのは正しいことであり、また必要なことであった。神の御言葉(であるイエス)がわれわれのもとに来るのは、われわれの中に住むためである。ただ一瞬の間というのではなく、久しきにわたって。また単にわれわれの心の中にというのではなく、われわれの家の中に。また単にわれわれの礼拝においてというのではなく、引き続きわれわれの会話や行為の中に、住むためである。神はイスラエル人の中に住もうとして、かれらをエジプトの地から導き出したもうた。またそのために、ナザレのイエスはその民のもとに来り給うた。しかしその民は―われわれは―、そのように来り給う彼を受け入れなかったのである。われわれの中において、神の御言葉(イエス)が出会う運命、それは、われわれによって十字架につけられるということである。…あの(天上と地上における)歓呼の声に引き続いて、われわれのもとに来たり給うや否や、かれは否まれ、罵られ、殺される言葉となったのではないだろうか。御言葉はいつも、またどこででも、闇の中で輝く光であるゆえに、闇によっては受け入れられぬ光ではないであろうか。視よ。このようにして、(否まれ、罵られ、殺される御言葉として)、 御言葉(なるイエス)は、われわれの中に住み給うのである。まさにこのようにして、御言葉(なるイエス)は、常に神に背くわれわれのために、われわれを贖い、赦す御言葉として、われわれの中に在す、神の御言葉である。…それゆえ、「ホサナ」は「万歳」の声ではない。そうではなくてそれは、(そのもともとの意味の通り)「救い給え」ということである。そのように叫ぶ救いなき者たち―彼らは救われている―これこそ、われわれが知らねばならぬことである。〉

 受難週が始まります今日の日曜日を、教会では「棕櫚の主日」と呼びます。それは主イエスが、エルサレムの町にろばの子に乗ってお入りになったとき、群衆が棕櫚の枝(なつめやしの枝)を持って主イエスを迎え、その枝や自分たちの上着までも主がお通りになる道に敷いて「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」そう叫んで主イエスを迎えた、この〈エルサレム入場〉の出来事に由来します。以前の翻訳は「なつめやしの枝」を「棕櫚の枝」と訳しておりましたことから、棕櫚の主日と呼ばれています。
 バルトは、出エジプト記第29章46節の御言葉を説きながら、この主イエスの〈エルサレム入場〉の出来事を思い起こします。〈神はイスラエル人の中に住もうとして、かれらをエジプトの地から導き出したもうた。またそのために、ナザレのイエスはその民のもとに来り給うた。〉主なる神さまは、エジプトでの奴隷生活の苦しみの中からイスラエルの民を救い出されました。そしてその民の中に常に共に住み給う神となられました。そして神の御子主イエスは、ご自分のものである人々、私たちすべての者のところに、私たちの中に住むために、天の父なる神のみもとから来てくださいました。そしてガリラヤからエルサレムへと、「ホサナ」と叫ぶ人々の中に住むために来てくださいました。
 そしてそのように語りながら、バルトはとても面白いことを申します。〈神の御言葉(であるイエス)がわれわれのもとに来るのは、われわれの中に住むためである。ただ一瞬間というのではなく、久しきにわたって。…単にわれわれの心の中にというのではなく、われわれの家の中に。また単にわれわれの礼拝においてというのではなく、引き続きわれわれの会話や行為の中に、住むためである。〉主イエスがエルサレムにお入りになった、主が来り給うた、それは、ただほんの一瞬、私たちの中に住むためというのではなくて〈久しきにわたって住むため〉。また単に私たちの心の中に住むため、というのでもなくて〈私たちの家の中に住むため〉。さらに、私たちが今こうしてしております礼拝の時だけ共に住むため、というのでもなくて〈引き続き私たちの会話や行為の中に住むため〉に、神の御子主イエスは、私たちのもとに来たり給うた、エルサレムにお入りになったのだと、そう言うのです。そして続けて言うのです。〈しかし彼の民は―われわれは―、そのように来り給う彼を受け入れなかったのである。われわれの中において、神の御言葉(イエス)が出会う運命、それは、われわれによって十字架につけられるということである。〉

 この説教を読みまして、ここには私たちの罪ということが鋭く指摘されていると思わされました。神さまは、独り子をこの世界に与えてまで私たちと共に住みたい、共にいたいと欲してくださいました。そして御子主イエスは来てくださり、私たちを救おうと、恵みを与えようとして、エルサレムにお入りになった。私たちの中に住むために。そしてそれは、〈ただ一瞬間というのではなく、久しきにわたって、単にわれわれの心の中にというのではなく、われわれの家の中に、また単にわれわれの礼拝においてというのではなく、引き続きわれわれの会話や行為の中に、住むため〉だったと、バルトは言うのです。けれどこのように聞きますとき、私たちの心の中には、そのようにして私たちの間に宿り、住もうとしてくださる主を、神さまを、邪魔に思う心が生まれてくるのではないかと思わされるのです。
 私たちは、今こうして礼拝をしているときに、あるいは家でひとり祈っているときに、神さま・イエスさまが私たちの中に共に住んでくださる、ということならばよいのです。けれども、礼拝を終えてそれぞれの家に帰り、家族のいる部屋に戻り、そこでいつもの会話を始める、いつもの生活を始める、そのすべてのところにおいて、私たちのすべての会話や行為の中に、神が住み給うと言われますと、私たちはこんなふうに言いたくなるのではないでしょうか。「神さまちょっと待ってください、ここまでならばよろしいのですけれど、ここから先はお入りにならないでください。」私たちの中には、私たちの中に住もうとして来たり給う主を邪魔に思う心がある、そう言わざるを得ないと思うのです。ある人は、私たちの中にある根源的な罪は神を邪魔に思う心だと言いました。バルトの説教は、私たちの中に潜んでいるその根源的な罪を鋭く指摘していると思います。〈しかしその民は―われわれは―、そのように来り給う彼を受け入れなかったのである。われわれの中において、神の御言葉(イエス)が出会う運命、それは、われわれによって十字架につけられるということである。〉バルトがここに語る「われわれ」とは、まさしく私たち自身のことだと思わせられます。

 今朝は、ローマの信徒への手紙第3章21~26節のみ言葉を与えられています。23節にはこのようにありました。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが……」。パウロは、この手紙の第1章18節以降第3章20節までずっと、この「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」ということを語り続けてきたと言えます。そこでパウロがひたすら語りますのは、「罪を犯した」ということにおいては、誰一人の例外もない、ということです。まったく誰一人の例外もなく、私たちすべての者、すべての人間が罪を犯したということを語っているのです。このローマ書の、私たちは皆一人残らず罪人だと徹底的に語ります部分を、バルトが「夜」と呼んだことはよく知られています。人間の暗い罪の姿が、今日の聖書の箇所の前の部分には延々と語られているのです。その罪は、〈来たり給う主を受け入れなかった〉、私たちのうちに住もうとして来られた主を邪魔に思う心だと言ってよいのです。私たちすべての中にあるその罪のゆえに、「人は皆、神の栄光を受けられなくなっている」とパウロは言うのです。
 聖書は、人間とは本来、神の栄光を受ける者、神さまの似姿に造られた者だと、創世記の始めに語ります。人は神に似せて造られ、神の祝福を受けてその生活を始めました。その生活のすみずみまで、神の栄光の光に照らされていました。そこに人間が人間として生きる充実があった、そのように描かれます。けれども、人はその神に背を向けました。神は人を、神に自動的に応答するロボットのようにではなく、自らの意思で神に応えていく神の相手となる人間として造られたのです。神の似姿に造られたということはそういうことです。そしてそれは、人間は、神の方に向いて生きることも、神に背を向けて生きることも選ぶことができるほどの自由を与えられた存在として造られた、ということを意味します。けれども人は、与えられた自由の中で、神に背を向けて、自分の思いどおりに、自分自身を神として、自分の欲望に従って生きていく道を選びました。神を邪魔にしたのです。そうやって神に背を向けてしまったとき、本来与えられていた神の栄光を失いました。人間は、自分が誰であるのか分からなくなりました。どこからきて、どこへ向かっていく者であるのか、「何のために生まれて何をして生きるのか」が、根源的に分からなくなってしまった。神に背を向けた罪の闇の中で迷子になってしまった。それが罪を犯した私たちの姿だと、創世記はそのように描いています。そしてすべての者がそういう罪人だと、ローマの信徒への手紙は言うのです。

 初めにご紹介したバルトの説教は、しかしこのように語っていきます。〈御言葉(なるイエス)は、いつも、またどこででも、闇の中で輝く光であるゆえに、闇によっては受け入れられぬ光〉だ、しかし〈視よ。このようにして(否まれ、罵られ、殺される御言葉として)、 御言葉(なるイエス)は、われわれの中に住み給うのである。〉否まれ、罵られ、殺されるお方、邪魔にされ退けられるお方として、〈 御言葉(なるイエス)は、われわれの中に住み給う〉のだと語るのです。主イエスは、〈常に神に背くわれわれのために、われわれを贖い、赦す御言葉として、われわれの中に在す〉のだと言うのです。
 ローマの信徒への手紙は、このバルトの〈視よ〉に響き合うように、「しかし今や」と告げます。「しかし今や、……神の義が現されました」と。夜の闇・罪の闇がおおう世界に「義の太陽が昇った」と大きな声で叫ぶかのように、「神の義が現わされた」と告げます。この「現された」という言葉は、〈現象として現れた〉という意味だと説明されます。つまりこの「神の義」というのは、抽象的なものではなく〈私たちが耳で聞き、目で見、手で触れることができる具体的なひとりのお方〉として現わされたということです。「神の義が現わされた」とは、神の義そのものである主イエスが、〈常に神に背くわれわれのために、われわれを贖い、赦す御言葉として、われわれの中に在す〉ということだと捉えてよいと思うのです。
 ローマの信徒への手紙は続けてこう語ります。「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。」第3章20節までは、罪を犯したということにおいて誰一人例外はないということが徹底的に語られていました。そしてここでは、「神の義が現わされた」ということにおいても誰一人例外はない、と言われているのです。さらに、その「神の義が現された」という神の恵みの出来事は、私たちの側の信心や信仰心や誠実さなどによることではなく、ただひとりのまことなるお方「イエス・キリストの真実」によって起こったことだと告げられています。「そこには何の差別もない」のです。主イエスの真実のゆえに、〈常に神に背くわれわれ〉のための罪の赦しと贖いの出来事、「神の義の現れ」は、すべての常に神に背く罪人に例外なく起こった、というのです。
 神の栄光を失って罪の闇の中に迷子になっている私たちすべての者の中に住もうとして、主イエスは来てくださいました。その主イエスを邪魔にして、「ここにお住まいになってくださっては困ります」などと言う、そういう者たちの中に住もうと来てくださった。神を邪魔にする私たちの罪を赦し贖うお方として、主は来てくださった。「神の義が現わされた」というのは、この主イエスの真実による赦しと贖いのみ業が現わされた、例外なくすべての罪人に現わされた、ということです。

 24~25節は、この「イエス・キリストの真実」が、どこにどのように聞こえ、見え、触れられるように現されたのか、ということが語られていると捉えることができます。24節は、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている私たちすべては、「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより値なしに義とされる」と語ります。私たちは皆、「キリスト(救い主)であるイエスの「贖いの業を通して」、すなわち主イエスの十字架の死によって、ただ神の恵みにより、値なしに、何の功しもないままに、義とされるのです。神の栄光を受けた造られたままの本来の姿を回復していただける、神さまに「よし」と言っていただけるのです。そのために主イエスは来たり給い、十字架に血を流して、私たちすべての者の罪を赦し贖うお方として、私たちの中に住み給うのです。
 25節はさらにこう語ります。「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。」これは、「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座として、目の前に公けに明らかに示されました」という言い方です。ガラテヤの信徒への手紙第3章1節に「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示されたのに」という言葉がありますが、それと同じ言い方です。古い文語訳の聖書では「十字架につけられたまいしままなるイエス・キリスト」と訳されていました。十字架につけられたままのイエス・キリストが、私たちの目の前に、まさに目で見て手で触れられるようにして、はっきりと示された、その贖いと赦しの業にこそ「神の義」が示されたと、パウロは言うのです。さらにこの25節では、神はこの主イエスを「その血による贖いの座」とされたと語られています。私たちの目の前にはっきりと示された、掲げられたのは、「贖いの座」であるイエスだと言われています。
 この「贖いの座」とは、本日の旧約聖書、出エジプト記第25章17~22節に繰り返し出て参りました「贖いの座」と同じ言葉です。これは大変具体的な言葉で、十戒の二枚の板が納められた、契約の箱の「蓋」の部分のことを指します。出エジプト記第25章17節以下のところには、その「贖いの座」、契約の箱の蓋の作り方が指示されていたのです。そして、レビ記の第16章というところには、この「贖いの座」があるところ、つまり契約の箱が置かれた神殿の聖所の一番奥の至聖所と呼ばれるところで何が行われるのか、ということが記されています。年に一度、大祭司がそこに入って、契約の箱の蓋である「贖いの座」に動物の血をふりかける、その動物の血すなわち命によって、大祭司自身とその一族、そしてイスラエルの民すべてのための罪の贖いの儀式を行ったのです。
 「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。」それは、御子主イエスが十字架について血を流された、命を注がれた、それによって、もはや動物の犠牲を必要としない、決定的な罪の贖いが果たされた、真実なる神の御子イエスご自身が「贖いの座」そのものとして、私たちの目の前にはっきりと示されたのだということです。そしてそのようなお方として、主イエスは来たり給い、私たちの中に在す、住み給うのです。
 否まれ、罵られ、殺される、そういうお方として御子イエスは私たちの中に住み給う。十字架につけられ、血を流し、その命を注いで、常に神に背く私たちすべての者の罪を赦し贖う、その「贖いの座」そのものとして、御子イエスは私たちの中に在し、住み給うのです。

 私たちは、自分の都合の良いときは喜んで主を迎えますが、都合の悪いときには主を邪魔にする、主を拒む、まことに身勝手な者たちです。それは、「ホサナ」と叫んで主イエスを喜んで迎えた群衆が、わずか数日の後には主イエスを「十字架につけろ」と叫んだのと同じではないかと思わされます。私たちも皆、主を十字架につけた人々と同じです。神の栄光を受けられなくなっている罪人です。そこに誰一人の例外もないと、パウロが厳しく見つめたように、私たちもまた、皆、救いなき者たち、望みなき者たちです。バルトは言いました。「ホサナ」と叫んだエルサレムの人々は、ただ「万歳」と言っていたのではない、「救い給え」と叫んでいたのだと。救いなき者たちが「救い給え」と叫んでいたのだと。そして〈彼らは救われている〉それを知らねばならないと。
 主イエスは、その救いなき民、私たちすべての者たちの中に、十字架についてご自身の血を注ぐ「贖いの座」として住み給うのです。耳で聞き目で見て手で触れることができる神の言葉、命の言、十字架につけられそしてお甦りになったお方として、私たちの中に在し、住み給うのです。私たちの中に生きて共におられるのです。私たちのための贖いそのものが、私たちのただ中に、私たちの目の前に、共にいてくださる。主を邪魔に思ってしまう、そういう私たちを赦し贖うお方として、私たちの中に住み給うのです。

 受難週を歩んで参ります。この週もまた私たちは、「今日は神さまに目をつぶっていていただきたい」とか、「今の会話は聞かなかったことにしていただきたい」などと思うことを繰り返すことでしょう。けれども、そのような私たちの罪の現実の中に、その罪を赦し贖うお方として、十字架につけられた主イエスは共に在すのです。私たちのための贖いとして、血を流し命を注いで、私たちの中に住み給うのです。〈久しきにわたって〉。真実なるイエス、私たちのための贖いであるイエス、私たちの救いであるイエスは、私たちの中に住み給うことをお止めになることはないのです。そこに私たちの救いがあります。